恋歌の吟遊詩人、下田逸郎。その歌声は何故か無意識の領域に響き渡る。

下田逸郎

時々、無性に下田逸郎の歌声を聴きたくなる。難しい言葉使いは一切なく、淡々と語るそのラブソングは、男性の中に眠る女性性、女性の中に眠る男性性をくすぐります。

1970年代にシンガーソングライターとして活躍して後、引退。1990年代に活動を再開、現代に至ります。

下田逸郎の名をご存知の方は少ないと思われますが、石川セリ『セクシー』桑名正博『月のあかり』松山千春『踊り子』等、沢山のミュージシャンに曲を提供し、独特の歌唱法(日本語を正確にハッキリと語るように)で歌うその歌声は、一度聴いたら癖になるような妙に耳に残るもので、いまだに潜在的なファンが数多くいる様です。

からす

僕が最初に耳にしたのは20代の頃、小さなブティックの有線放送(当時は何処でも有線が流れていた)から聴こえて来た『セクシー』でした。下田逸郎本人のバージョンで、今まで聴いた事のなかった独特のメロディーラインと歌声で、耳から離れず、そこから曲名とアーティストを必死で探したのを覚えてます(今ならネット検索で一発なのですが…)。

からす

下田逸郎のラブソングは、他のアーティストと何が違うのでしょう?

男女間の様々なシチュエーションの微妙な『感じ』をさりげない言葉と客観的な視線で詩的に語り、誰もが共感出来るその『感じ』をその声質で表現されると、小さな小さな恋愛の世界がある種の普遍性をともなった大きなエネルギーとして僕たちの心に響きます。

この空気感はやはり唯一無二なのでしょう。

からす

人は、人生の一期一会の体験に対して、どのような心的印象をその瞬時瞬時に置いているのでしょうか? けっこう無自覚に色々な感情のエネルギーをまき散らしながら生きてるようです(自分の内面を正直に観察すればわかりますよね)。

たとえ運命宿命があがなえないものであったとしても、瞬間瞬間に置いて行く感情の発露は100%自由であり、その積み重ねがその人の『業』の有り様を決めているのではないでしょうか?

からす

重要な局面であるないにかかわらず、その感情の発露の影響は常に等しいのでしょう。

あくまで私的な感情が渦巻く男女間の恋愛であるからこそ、そこに宇宙的な広がりを持つ永遠性を放てる可能性があるはずです。その可能性を感じさせてくれる歌こそ、真の『ラブソング』なのではないでしょうか?

音楽の持つエネルギーは瞬時にして広がる永遠性にあります。
下田逸郎のラブソングは、その永遠性を僕に感じさせてくれる数少ないミュージシャンの一人なのです。