《ドタキャン騒動》という古希の沢田研二コンサートの大プロモーションを経て、《70YEARS LIVE OLD GUYS ROCK》は、全国66箇所を大盛況のうちに無事完結(代替え公演はあるけどね)。 千秋楽の武道館3daysは満員御礼! メディアはジュリー及びそのスタッフ、そして全国のジュリーファンの底力を改めて知ることとなったのです! ジュリーファンをなめんなよっ!(僕は武道館、行ってないけど…)
コンサートツアーが開催される前、日程を見た瞬間、千秋楽・武道館3daysは「さすがに厳しいのでは?」と、老婆心ながら心配していたのですが、いざ蓋を開けてみるとメディアからの、《大きなお世話のバッシング記事》を吹き飛ばすほどの大盛況ぶり! ジュリーお得意の自虐ネタも飛び出し、上機嫌の内に武道館ライヴは終了したそう。 よかった、よかった。
そして平成最後のジュリーのコンサートのラストで熱唱された曲は《ヤマトより愛をこめて》。 この曲はアニメ映画《さらば宇宙戦艦ヤマト・愛の戦士たち》のエンディングテーマとして昭和53年に歌われたもので、作詞は阿久悠 、作曲は大野克夫 、そして編曲は宮川泰と、ジュリーと深く関わった三巨匠によるもの。 このメロディーと歌詞に込められた当時のメッセージを越えて、武道館でのジュリーは、どのようなメッセージを込めて歌ったのか?
今回は《70YEARS LIVE OLD GUYS ROCK》完結祝いとして、名曲《ヤマトより愛をこめて》の歌詞を借りながら、「愛とは何か?」「祈りとは何か?」そして「戦争と平和とは何か?」という壮大なテーマを語ってみたいのです(どのような展開になるのか僕にもわかりませんが…)。
前回の記事《ジャニス・ジョップリン》の中でも、大地真央の言う《信じられる愛》を探求してみたのですが、途中から自分でも何を言っているのかわからなくなり《信じられる愛》を掴み切れなかったので、今回は、名曲《ヤマトより愛をこめて》を歌う平成最後のジュリーの歌声を反芻しながら再度挑戦!
前回の記事《魂のブルースシンガー》ジャニス・ジョップリン 地鳴りの様に響き渡る圧倒的な歌声は、人間存在の根源を揺さぶる! https://blog.akiyoshi-zoukei.com/katsu/archives/2734
《宇宙戦艦ヤマト》にⅠミリもハマらず、その内容を一切知らない僕なのですが、反戦、反原発、被災地への祈りなどのメッセージソングを発信し続けている今のジュリーが歌う《ヤマトより愛をこめて》に込められたメッセージを いつもの様に「僕にはこう聴こえた、僕はこう思いたい」の超私的で、大いなる見当違いの解釈でお送りします。
まず最初に、ジュリーが今回のツアーでこの曲《ヤマトより愛をこめて》を何故、ラストの曲に選んだのかを考えながら聴いてみた時、昭和、平成と 50年以上歌い続け、今に至る古希・沢田研二の集大成として、新元号からラスト10年に向けての、所信表明・《沢田研二より愛をこめて》として選んだのではないのか? きっとそうだ! そうに違いない! 間違いなくそうなんだ! 異論のあるやつはかかってきなさい!(嘘です) の確信に至ったのであります!
その人の優しさが花にまさるなら
その人の美しさが星にまさるなら
花や星々は、ただそこに咲き、ただ遠くで煌めいています。人の本当の優しさや美しさも、ただただ全方向に放たれているだけで、人の優しさが野に咲く花にもまさると受け止められる感受性。人の美しさが銀河の星々の煌めきにもまさると思える心の審美眼は、その時代、その場所に住む人々の情緒によるもの。
君は手を広げて守るがいい
身体を投げ出す値打ちがある
その情緒に込められた、感受性や審美眼こそが人生の価値であり、それらを与えてくれる人々や山川草木を守ることは、身体を投げ出すほどの値打ちがあると、歌われます。
一人一人が想うことは
愛する人のためだけでいい
君に話すことがあるとしたら
今はそれだけかも知れない
昭和を代表する作詞家・阿久悠先生は、愛する人のためには闘う値打ちはあると、命を賭しても守る価値はあると投げかけています。 しかし平成30年の間、未曽有の大災害や原発事故を何度も経験し、世界の軍事力や経済力の勢力図が大きく塗り替えられ、それぞれの国が、覇権主義・国粋主義・排外主義を強めつつある現状を鑑みたとき、事はそう簡単ではないようです。 ここまでの歌詞の内容を今のジュリーはどのような祈りを込めて歌っているのでしょうか?
「一人一人が想うことは 、愛する人のためだけでいい」
世界平和や博愛精神などを含んだ理想的な《慈愛》なんてものは理論や理屈では語れるものの、魂のレベルで実感することは至難の業。僕などの強烈な自我の持ち主には絵にかいた餅。 しかし、《愛されること》を期待しない《愛すること》だけを自分の周りの小さな小さな世界の中から体感していくことは可能で、この世に生まれ出た意味の一つが、この小さな《愛》を体験しながら、いつの日か普遍的な《慈愛》に辿り着くことではないでしょうか?
いま世界のどこかで、それぞれの場所で、それぞれの人が、それぞれの愛する人を守るために、殺し殺されを繰り返しています。この現状を踏まえたうえで、「戦争とは何か?」「平和とは何か?」という命題を僕たちは突きつけられているのです。 ジュリーも《憲法第九条》や《原子力発電》等に対するメッセージを発信する中で、今でも日々、自身の心のあり様を見つめ続けているのではないでしょうか?
戦火の中に身を投げて、愛する人々のために死んでゆく覚悟は美しいことなのでしょうが、改めて、愛する人々の守り方、身の投げ出し方を深く考えてみたとき、
今はさらばと言わせないでくれ
のフレーズが響いてくるのです。
世界の人々の心のありようの転写が、今の《欲》と《愛》と《憎》、それらすべてを内包する《恐怖》が渦巻く末期的な世界情勢を作り上げているとするならば、今を生きる一人一人が自身の心のあり様を問う責任があるように思われるのです。 これはそれぞれの宗教観や哲学観などという大それたものではなく、現状を生きていく中で、日々、自身の心に渦巻く《欲》と《愛》と《憎》 、それらすべてを内包する《恐怖》 の現れを正直に見つめていく作業が、「愛とは何か?」「戦争と平和とは何か?」そして、「祈りとは何か?」を理解する糸口になるのかもしれないし、ならないのかもしれないということなのです。
今はさらばと言わせないでくれ
抽象的過ぎて僕もわからなくなってきたので、今回のジュリーの《ドタキャン騒動》を見て感じた僕の心の動きを例にとって話してみようと思います。まあ僕の場合、逆上癖のある、どうしようもない性格なので、あまり参考にならないのでしょうが……。
今回の騒動は《エンターテナー》としての捉え方と、ジュリーのファンか否かで、感情の動き方が違ってくるのでしょうが、僕自身、ジュリーを愛する側として、全体を見ずに見当違いの批判を繰り返すメディア《敵》に怒りを覚えました。この初動感情の怒りは、僕が《正義》とする《愛》を守るために生まれた《憎》が感情の刃となって《敵》を刺します。で、とりあえず心を静め、《エンターテナー》としての捉え方、考え方、そして人それぞれの《正義》を見つめていく作業をすることによって初動感情の《怒り》は徐々に収まり、人それぞれの考え方を容認しつつ共存の道を探るのです。
《敵》に対して初期衝動の《憎》を発し続け、自身の《正義》を実現するまで《戦い》を仕掛け続けることが世にいう《革命》なのでしょうが、武器を使わずとも、《反対運動》の本質は、倒さなければならない《敵》に対する《憎》にあるのではないでしょうか。
はたして《憎》や《怒り》からのエネルギーは《平和》を実現するものとなるのか?
真の革命とは《敵》という外部に向けて《憎》の刃を放つのではなく、愛するものを守るために自身が持ってしまった内面の《怒り》に焦点を合わせ、この《怒り》を自身の《愛》で焼き尽くすことなのではないでしょうか? そしてその《愛》や《許し》をモチベーションとしたメッセージが万人を突き動かす唯一のものだと思われるのですが…。
しかしこれこそ至難の業で、僕などは、いまだに自身の発した《怒り》に日々返り討ちにあっている今日この頃……。

今、反戦や反原発の運動をされている方々の思想や理念は素晴らしく、僕も大賛成なのですが、もしその方々の心の中の《憎》と《怒り》を鎮めて、《祈り》と《慈愛》だけの衝動で発信することが出来たなら…。
《ドタキャン騒動》の後のツアー中、どこかのライブ会場で男性の観客がジュリーに向かって悪態をつき続けた出来事がありました。係員がその男性を連れ出すまでの間、黙ってステージで聞いていたジュリーは、男性がいなくなった後「あの人も色々あったのでしょう」的なことを呟いて、そのままライヴを続けたそう。 これを知った時、僕は大好きなジュリーの映画《幸福のスイッチ》でジュリーが演じた電気屋《イナデン》のオヤジのセリフを思い出したのです。
《過去記事の抜粋》
落雷のためアンテナが故障し、修理をしている父・誠一郎に向かって、定年後の家の主が「お前の所の物は故障ばっかりやないか!」と怒鳴り散らします。父・誠一郎は一切言い返すことなく、平謝りに謝ります。その一部始終を見ていた娘・怜は、主が寝室に戻った後、「お父さんのせいじゃない、何 で言い返さないのか?」と誠一郎に食ってかかりますが、誠一郎は「ええやないか、ご主人も色々大変なんやろ」と返すのです。
怜はおもわず廊下に飛び出し、自身の会社での境遇や、今までの自分の人生での度重なる世間との軋轢とを重ね合わせ、どうしようもない悔し涙を流すのです。過去記事・映画《幸福のスイッチ》に見る、役者・沢田研二の更なる可能性。
https://blog.akiyoshi-zoukei.com/katsu/archives/2095
あの怒りっぽかったジュリーがとったこの対応を知った時、先ほど話した、「《憲法第九条》や《原子力発電》等に対するメッセージを発信する中で、今でも日々、自身の心のあり様を見つめ続けているのではないでしょうか?》」の確信を得たのです。
《祈りとは何か》
今までお話しした、自身の《愛憎》の限りを越えて、自分と他者、双方の《怒り》を静めること。これがもっと大きく広がり、人類の歴史、宇宙の歴史を重ねる中で、積もりに積もった《愛憎》の魂を鎮めることこそ《鎮魂》《祈り》につながると思うのです。
《政治的なパッション》など微塵もないと言い放ったジュリーは、反戦、反核を真剣に考える過程でその精神性は、この《祈り》の境地に近づいているのでしょう。《仙人・沢田研二》は言い得て妙なのです。
と、ここまではあくまで理想論。
新元号となる今年から、激動の時代に入ります。 個人的な精神改革は一番重要になることは間違いないのでしょうが、それを凌駕するスピードで、世界ではきな臭い出来事が起きつつあります。 世界情勢の混乱に否応なく日本が巻き込まれた時、支配されるのか?抵抗するのか? 甘んじて殺されるのか?闘いに出て殺し合いに行くのか? 極端な例ではありますが、この辺りの決断をそれぞれが問われることとなるのでしょう。
日本国は《日本国憲法第9条》を守りながら《戦争放棄》精神を貫くのか? それとも他国の侵略に対して、防衛という名の戦争(人殺し)に打って出るのか?
イエス・キリストが我が身をもって示した《博愛》の精神。 仏陀が実践した《慈愛》の心。 インドのガンジーが蛮国・イギリスに示した、《非暴力・不服従》の実行。
《愛する人》を守る方法は人それぞれで、それぞれの価値観、正義感によるもの。 僕自身も、正直なところどのような態度をとるのか、極限の状況にならないとわからないのです。 ただ一つだけ言えることは、闘いに踏み出すよりも、キリスト的な死を選択するほうが遥かに勇気のいることなのだということ。
イエスの様に 死を懸けて《汝の敵》を愛せるのか? 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何もわからないのです。」と言って死んでゆけるのか?
再び《ヤマトより愛をこめて》に戻りますと、その二番の歌詞には、預言書のような言葉が並びます
いつの日か唇に歌がよみがえり
いつの日か人の胸に愛がよみがえり
君は手を広げて抱くがいい
確かに愛した証がある
遠い明日を想うことは
愛する人のためだけでいい
君に話すことがあるとしたら
今はそれだけかも知れない
ここでの歌詞は再生の歌として書かれています。 唇に歌が消え、人の胸に愛が消えてしまう世界。 一度世界(宇宙)は破壊され、歌も愛さえも消え失せてしまった世界は、平和ボケしている僕たちには実感として想像することが出来ません。 しかし、現在の世界情勢を俯瞰してみた時、間違いなく世界的な紛争が巻き起こる方向に動いているように思えるのです。 物理的な対処はその時々に応じてしていかなければならないのでしょうが、絶対に戦争を起こさないとする強い思いを持ちながら、《憎》や《怒り》からの衝動ではなく、《愛》や《鎮魂》をエネルギーとした大いなる《祈り》を、今を生きる人々が、宇宙に響かせることが求められます。
今はさらばと言わせないでくれ
今はさらばと言わせないでくれ
今後10年間は歌い続けると約束してくれたジュリーは、今後「さらば」と言わせない世界を保つために《ヤマトより愛をこめて》を熱唱したのではないでしょうか?
平和に対する大いなる《祈り》を武道館いっぱいに響かせて《70YEARS LIVE OLD GUYS ROCK》のツアーは幕を閉じました。激動の時代の幕開けとなるであろうこれからの10年は、今を生きる人間一人ひとりの精神性を問われる時代。
その総体の《祈り》がどのような響きになるのかで、世界の行方が決まってしまいます。 僕も日々《憎》や《怒り》の沸き立つ心を洗いながら《ヤマトより愛をこめて》の響きとシンクロできるほどの《祈り》を天に響かせることを心掛けて生きていこうと思うのです。
今回の記事は、読み物として成立しているのか大変不安に感じて、ブログに上げるか否かを随分迷ったのですが、刻々とアジアの隣国との関係が収拾のつかない状態になって行くにつれ、ネトウヨの好戦的な書き込みの嵐がネット上を席捲してしまっている現状に、大きな危機感を感じ、思い切ってのせてしまいました。
いつもジュリーの記事は、サラっと軽くを心掛けているのですが、今回はえらく重たくなってしまい、申し訳ありません。
政治的パッションのかけらも持たない僕なのですが、何としても戦争(殺し合い)だけは回避したいと、皆さんと同じように切望している一人なのです。
日々、自分の周りに起こる、取るに足らない小さな出来事に、どの様な想いを添付して生きていくのかが世界の在り方を決定づけていることは、量子力学の世界でも証明されている今、
ジュリーの歌う《ヤマトより愛をこめて》の祈りは、あと10年は歌い続けると約束してくれたジュリーの、
所信表明・《沢田研二より愛をこめて》として、僕は受け取ってしまったのです。
いつもありがとうございます。
幸福のスイッチ、頑固で短気で、世の中に流されず、自分らしいやり方を貫いて、過剰に仕事熱心な電気屋のオヤジは、ジュリーそのものだと思いました。
ジュリーの映画というとお若い頃の作品ばかり上がりますが、私はお年を召されてからが好きです。「eiko」で口ずさむ「遠き山に日は落ちて」も素敵です。
ジュリーは何年か前、大阪高槻でのライブ中に大雨(?)で停電になってしまい、スタッフが帰らせようとしたのを「外の方が危ない」からと押しとどめて、メガホンを持ってきて、皆で「カッコー」を歌ったり、和ませて、
〆がアカペラのヤマトだったそうです。
私はまだその頃ジュリーのファンではありませんでしたが、行きたかった。聞きたかった。
騒動以降、あること無いこと、ないことないこと書き散らされて、イイコチャンぶった連中に大事なジュリーを侮辱されて、ささくれまくったジュリーファンの心を、癒やして下さって、本当にありがとうございます。重ねてお礼申し上げます。