絶望的な孤独の中、《信じられる愛》という光を追い求め、飛んで火にいる夏の虫の如くブルースという炎の中に飛び込み、身も心も燃焼させ、わずか27歳にして逝ってしまった史上最高の女性ロックシンガー《ジャニス・ジョプリン》
そこに愛はあるんか? 信じられる愛は………、あるんか?
CMの中の大地真央のドスのきいた声で放たれるこのセリフを聞いたとき、
「サラ金に信じられる愛なんかあるかぁーーーっ!!」
とテレビに向かって毒づいていたのですが、何度も聞くうちに何故か《ジャニス・ジョプリン》の歌声が聴こえだします。子供の様に地団太を踏みながら満たされぬ《愛》を叫ぶ、あの濁声は、愛の薄かった平成時代最後の今、「何かが違う!」の声なき声の不協和音と重なります。
そこに愛はあるんか? 信じられる愛は………、あるんか?
絶対安心の羊水の中、《信じられる愛》に満たされていた胎児は十月十日の時を経て、狭い暗い産道を通り抜け否応なしにこの世に産み落とされます。ここからリセットされた《信じられる愛》を今一度、生涯をかけて探し求める旅路が、僕たちの人生なのです。
《愛すること》《愛されること》とは何か?
若いころは(今でもそうだけれど)、《愛》なんて言葉、口にするだけでも顔から火が出そうなほど恥ずかしかったのですが、他にピッタリハマる日本語が見当たらないのでこのまま続けますが、ほとんどの人が持つ《愛》という概念は《憎》と表裏一体のもので、《個人的感情》を含んだものだと思うのです。《信じられる愛》といった瞬間に《信じられない愛》が立ち現れ、《愛》に《憎》が張り付きます。
《私が愛する》 《私が愛される》
が《我》が生まれ、《主体》と《客体》が分離された瞬間に《個人的感情》が介入し、絶対的なものだったはずの《永遠の愛》が、重たい意味を持った《愛》と《憎》となるのです。
この世に生まれた誰もが、この《愛》と《憎》を嫌というほどに経験、認識させられるのですが、《愛》だけを渇望するため、影のよう張り付いている表裏一体の《憎》に生涯、苦しめられるわけなのです。
《愛憎》の範疇の《愛》しか知らない僕たちは、その限りを越えた、イエスの言う《永遠の愛》《許し》、仏陀の言う《慈愛》を体験できるのでしょうか?
時間の範疇にない、永遠なる《愛》がいったいどういうものなのかを探し求める事が人生の意味なのであれば、ロックシンガー《ジャニス・ジョプリン》の、真っ新な自分を誤魔化すことをせずに、武装されていないむき出しの感受性で、見つけらるはずのない《信じられる愛》を探し求めて討ち死にした27年の生きざまは、花を手向けるに値する美しさがあったように思われるのです。
学生時代、《ジャニス・ジョプリン》の魂を絞り出すように歌う濁声を最初に耳にした時の衝撃。
その歌声は、「私はここにいる!」「誰か私を愛して!」「私は生きるに値する!」「私は、私は、私は……。」 《信じられる愛》と《信じられる場所》を求めて泣きながら彷徨う、幼児の泣き声に聴こえてきたのです。
人は誰でも《私が愛する》ことによって《私が愛される》ことを切望します。その二律背反の無限ループに耐えられずに、何かに依存して生きてゆくのが人間。 ジャニスの様に感受性が鋭く感情豊かな人は、常人には理解出来ぬほど世間との軋轢に苦しみます。 それを誤魔化すため、アルコール、ドラッグ、セックスに溺れにおぼれてしまったのでしょう。
《私が愛する》ことによって《私が愛される》ことを切望してしまう二律背反の無限ループは、気の遠くなるほどに繰り返されるとする《輪廻》とシンクロしており、《愛》と《憎》、《主体》と《客体》の時間の中で彷徨い続けます。
ジャニスがどのような曲を歌おうとも、《渇愛》の歌にしか聴こえてこないのは、この二律背反の無限ループの中では、どうあがいても感じることのできない《永遠の愛》を求めながら生きている僕たちと共感してしまうからなのでしょうか?
親を捨て、故郷を後にせざるをえなかった境遇の中、自己の存在を確認するための、世の中に認めてもらうための唯一のツールが、ジャニスにとって、ブルースだったのでしょう。 世界中の若者が革命の夢を見た、1960年代後半、反体制のアメリカンカルチャーの象徴として君臨したロックの女王《ジャニス・ジョプリン》。その華やかな活躍とは裏腹にジャニスの心象風景は、名曲《Ball And Chain 》や《Summertime》で歌われている黒人奴隷が見た、アメリカの風景に近かったのではないでしょうか。
《Ball And Chain 》のオリジナルは、R&B界の伝説の女王《ビッグ・ママ・ソーントン》の曲。恋愛の歌に例えながら黒人奴隷の人生を歌ったもので、Ball And Chainとは、奴隷に嵌められた鎖の付いた鉄のボール(足枷)のこと。
《Ball And Chain 》
降り続く雨を 窓辺に座ってただ眺めている
おぉ 神様!
窓辺に座ってただ雨を眺めていた私を
いきなり誰かがつかまえた
それはまるで鎖の足かせ
本当にそんな感じだった
あたしは 引きずり回されそう
私達の恋は 何時だって
まるで鎖のついた
まるで鎖のついた
苦しくて不自由な
愛するあなた
足かせみたいなの
《Summertime》のオリジナルは、ジョージ・ガーシュウィンがオペラ『ポーギーとベス』に書き下ろした曲で、木綿畑で働く貧しい黒人夫婦の母親が子供に聴かせる悲しい子守歌。
働けど働けど、暮らし向きは楽にならず、絶望の闇に暮らす黒人の境遇と、追い求めても追い求めても《信じられる愛》をつかむことの出来なかったジャニスの境遇が重なったからこそ、あの魂を絞り出すように歌う濁声に誰もが共感したのでしょう。
それほどにジャニスにとって《信じられる愛》を求める事は死活問題だったのです。
《Summertime》
夏になった 暮しも楽だ
魚は飛び跳ね 綿花は伸びて
あんたの父さんお金持ち あんたの母さん美しい
だから坊や 泣かないで……
ある朝坊やは 立ち上がって 歌う
翼を広げて 空だって飛べるんだ
その朝が来るまで 恐がらなくたっていい
父さん母さんが あんたを見守っているから……
黒人はアフリカから否応なしに奴隷としてアメリカに連れてこられ、木綿畑で信じられないほどの労働をかせられます。 その絶望的な境遇の中、若いお母さんは坊やに現実とはかけ離れた夢のような幸せな生活を子守歌として聞かせます。 そしていつの日か、坊やが大きな翼で空を自由自在に飛び回り、大きな声で歌い始めるその朝を信じて……。
ジャニスは、《坊や》を《信じられる愛》に置き換えて《Summertime》を魂の限り歌います。
そこに愛はあるんか? 信じられる愛は………、あるんか?
一番信じられない消費者金融の企業が吐くこの言葉は、《愛》と《憎》の渦巻く地上の想念と重なって、聞くに堪えない不協和音となって、全世界に響きわたります。
人間の存在そのものを問われる時代に突入した今、もう情念を歌うジャニスの叫びではこの不協和音を打ち消すことは出来ないのでしょう。欲望やコンプレックスをモチベーションとする時代は終焉を迎えたのです。
そして今、世界(宇宙)が必要とする《響き》を奏でられるのは誰なのでしょうか?
こんばんは。
とうとう、「ジャニス・ジヨップリン」でのブログの回ですね( ͡° ͜ʖ ͡°)
彼女の悲痛な歌声は、耳で聞くより心で聴くと何故だか心地良さを感じてしまいます。
改めて聞き返し、ブログを読み込んでいくとそこに「愛」を発見します。
それぞれの生きてきた形が違うように、感じ方も変化していくんですね…
ブログ拝見して、大好きな映画を観たくなりました。「カラーパープル」です。
風景の美しさとストーリーに涙涙でした。
又、音楽関連のブログを楽しみにしています!