あぁ麗しの昭和歌謡曲⑨倍賞千恵子《さよならはダンスの後に》 その洗練された歌声は、まだ見ぬ《花の都・東京》に対する憧憬と重なって…。

さよならはダンスの後に

フーテンの寅さんの可愛い妹、さくら。実は元SKDのトップスターで、歌も踊りも超達者なエンターテナーだったのです。この《さよならはダンスの後に》は、さくら最大のヒット曲でした。大人のお姉さんの失恋の歌。ダンスホールもクラブもカクテルも、ちんぷんかんぷんな保育園児の僕だったのですが、その色香は本能で受け取っていたのです。まだ見ぬ《花の都・東京》に対する憧憬の念も重なって、僕の中で倍賞千恵子は《花の都・東京》を代表する、美しい歌姫だったのです。

美少女戦士セーラームーン主題歌《ムーンライト伝説》が何故、僕が大好きだったのかが、たった今判明いたしました!

その訳はーーーーーっ、

倍賞千恵子の歌《さよならはダンスの後に》にソックリだったからぁーーーーーっ!チコちゃんに叱られる風に)

からす

はい。冒頭を読んで「どうでもいいわっ!」と怒って別サイトへ移動するのだけはご勘弁を。
お客さん、これから最高に面白くなりますから~っ。(全然自信ないけど…)

今回、この記事を書くにあたって、ウィキペディアでこの曲を調べたところ、作曲家の小川寛興《さよならはダンスの後に》《ムーンライト伝説》が、酷似していることに気づき、日本音楽著作権協会を通して交渉し、著作権使用料の一部を小川寛興に分配することで和解したとありました。

随分前の記事《題名に月のついた名曲10選》の時、恥かしながら番外として《ムーンライト伝説》を入れ込んだのですが、無意識に昭和歌謡の匂いをこの曲から嗅ぎ取っていたのでしょう。 やっぱいいもんね《ムーンライト伝説》

《題名に月のついた名曲10選》https://blog.akiyoshi-zoukei.com/katsu/archives/1968

からす

で、《さよならはダンスの後に》のお話。

倍賞千恵子は、既に解散してしまった松竹歌劇団(SKD)出身で、歌とダンスはお手の物。山田洋次監督に映画『下町の太陽』(この主題歌も素晴らしかった!)で見いだされる少し前までは、松竹歌劇団(SKD)の舞台に立っていたのです。

松竹歌劇団(SKD)の舞台、実は僕、何度か見ているのです。

30年ほど前のことですが、ある日、日本生命の営業お姉さんから《SKD福岡サンパレス公演》のタダ券を貰います。当時既に人気も凋落し、元気のない松竹歌劇団(SKD)だったので、あまり気乗りのしないまま出かけたのですが、

これが面白かった!

スターさんの名前は全く分からなかったのですが、ダンスは《和踊り》《洋踊り》の2パターンがあって、過去の出し物の名シーンをダイジェストで次々に演じてくれるものだったので、テンポよく最後まで楽しめたのです。

踊りの振り付けや見栄のはり方、場面転換など、見たことのない独特の世界で、ニヤニヤ、ケタケタ笑いながら、一人で大いに盛り上がってふと、となりに座っている友達を見ると、な、なんと爆睡状態。終演後「こんなB級レビュー、観るんじゃなかった!」と、ご立腹。「観てないやん、終始寝とったやんかぁ!」と心の中でつぶやく僕。

宝塚歌劇団と比べると(見たことないけど)、確かにレベルが低くB級感は否めないのだけれど、団員の「ダンス大好き!SKD大好き!」感が、舞台から溢れ出でており、タダ券で拝見させて頂いているのが申し訳ないほどに大満足で、その後2度ほど観に行ってるのです僕。

からす

帰宅して、神戸出身、学生時代宝塚歌劇団にしっかりどハマりしていた過去を持つ、うちのかみさんに、「松竹歌劇団おもしろかったよーーーっ」とつい口走ってしまったのが運の尽き。

宝塚歌劇団がいかに素晴らしく、所詮偽物の松竹歌劇団がいかにダメかを延々と2時間ほどレクチャーされ、「そ、そうなん…?」と情けなく相槌を打つ僕。終いには「そんな松竹歌劇団を面白かったという、あんたのセンスを疑う!」とまで言われる始末。

「松竹歌劇団おもしろかったよーーーっ」ち、ひとこと言っただけやーーーーんっ!!(泣)

思い出すと悲しくなってしまったので、《さよならはダンスの後に》の詳しい紹介を何もしないままに、ショートショート劇場に突入します。

ショートショート

倍賞千恵子《さよならはダンスの後に》は1965年にリリース。その年だけでなんと150万を売り上げる大ヒットになります。後にセーラームーンに難癖を付ける事となる作曲家・小川寛興は、月に代わっておしおきされることもなく、第7回日本レコード大賞作曲賞を受賞します。

僕が保育園児の頃のお話。

倍賞千恵子は、その三年ほど前に《下町の太陽》で最初のヒット曲を出していたのですが、一番上(高校生)の姉が大好きで、四六時中その歌を口ずさんでおり、僕はそのへったくそな歌声で倍賞千恵子を知ることとなったのです。しかし、十歳も離れた姉だったので、子分のように扱われながらも、とてもよく可愛がってくれていたのです。

からす

東京オリンピックの開催された1964年、我が家にも待望の白黒テレビがやってきます。国立競技場に入ってくる、マラソンの円谷浩吉選手を泣きながら応援していた同じテレビで、翌年初めて倍賞千恵子《さよならはダンスの後に》を観ることとなるのです。

ミラーボールが光り輝くダンスホールのスタジオセットで、体にぴったりフィットとしたドレスを着た5~6人の色っぽいお姉さま(おそらくSKD)を従え、颯爽と歌い踊る倍賞千恵子。 初めてその歌を耳にした時の感動は、今でも忘れられません。しかしすぐさま姉が、重ねて大声で歌うものだから、倍賞千恵子の歌が台無しに。絶対服従の僕は文句さえ言えずに泣き寝入り。

しかし後に、ザ・タイガースの《モナリザの微笑》をテレビと一緒に姉が歌っているところを、ジュリー狂の母から思いっきり頭を引っ叩かれるのを目撃したとき、僕は留飲を下げることとなるのです。

からす

一度姉がどこかに遊びに行った折、僕にブリキの飛行機のおもちゃを買ってきてくれ、その時飛び上がって喜ぶ僕を見て面白がり、お出かけした際は毎回何かしらのお土産を買ってきてくれ、その喜びようを笑う姉。

そんな姉が高校三年生になり、修学旅行に出発します。

からす

ダンスホールで倍賞千恵子《さよならはダンスの後に》を歌い踊っている《花の都・東京》に行くというのです。歌詞に出てくるダンスホールとクラブとカクテル。保育園児の僕にとって何の足掛かりもないワード達。それでも保育園児は、精いっぱいの妄想を繰り広げます。

東京といえば、テレビで見た出来たばかりの赤い色の東京タワー。ダンスホールとクラブを無理くり東京タワーと結びつけ、その隣でカクテルを飲む倍賞千恵子。スケール感は無茶苦茶で、巨大化した倍賞千恵子東京タワーが並び立って、保育園児の小さな頭の中で《さよならはダンスの後に》を歌い踊ります。

そんな妄想を繰り広げている保育園児のもとに、いよいよ修学旅行から姉が帰ってきます。

からす

興奮を抑えきれず、東京が如何に人が多かったか、東京タワーが如何に高かったか、国立競技場がどれほど大きく美しかったか、富士山の美しさと雄大さ等を、まるで自分の手柄のように自慢げに話す姉。九州に下って一度も東京に戻れずにいる東京生まれの母は、姉の語る大きく変化したであろう東京の話を嬉しそうに聞いています。

そしていよいよお土産の時間。

保育園児に渡されたお土産は、なんと《東京タワーのプラモデル》《東京タワーの板チョコレート》

東京にいた姉とどのようにシンクロしたのかわかりませんが、保育園児の訳の分からない東京の妄想が実を結び、ドンピシャのお土産だったのです。

♪何も言わないでちょ~うだいんっ

っん黙ってただ踊り~ましょ

っんだってさよならはつぅ~らい

ダンスの後にしてねぇ~っ♪

《さよならはダンスの後に》を悶えるように口ずさみながら、一週間かけて《東京タワーのプラモデル》を組み立て、それを眺めながら一か月かけて《東京タワーの板チョコレート》を食べ終えるという至福の時間を過ごした保育園児。

途中「そんな変な歌い方しなさんな!」という母からの強いクレームで、多少歌唱法の変更を余儀なくされた保育園児だったのですが、至福の時間に変わりはなかったのです。

からす

その後、 高度成長真っただ中、我が家は、明日食べるお米も無いような極貧状態から、父の仕事も多少安定し、高校生の姉も何かの間違いで大手都市銀行に就職。今まで口に出来なかった様々な食べ物が我が家の食卓に並び始めます。テレビやトランジスターラジオから流れる珠玉の歌謡曲の数々を耳にしながら、姉が運んでくる新しい食べ物や品物は、僕にとって強烈な体験(こんな美味しいもの生まれて初めて食べましたシリーズ)としてインプットされ、忘れられぬ程の多幸感を味わったのです。

駄菓子屋のバタークリームのケーキ ➡ 街に初めてできた不二家のショートケーキ

ずっとウナギだと母に騙されて食べていたアナゴ ➡ 本物のウナギのかば焼き。

駄菓子屋のベビーコーラ ➡ 本物のコカ・コーラ

駄菓子屋のまがい物のチクロまみれのチョコレート ➡ 不二家のペンシルチョコレート

ずっと牛肉のステーキだと母に騙されて食べていた鶏肉のステーキ ➡ 本物の牛肉ステーキ

母が作ったちらし寿司 ➡ 来客があった時だけ出前されたにぎり寿司…の、客の食べ残し

ワタナベのジュースの素 ➡ ファンタオレンジ

24回の分割払いで購入した、夢のカラーテレビ(キドカラー)

僕が小学校上学年になったころ姉が購入した、小さいのだけれどちゃんとした、夢のセパレート型ステレオ。

姉が三か月でやめて放置されたままの、クラシックのガットギター

からす

飽食の時代、コンビニのスイーツでさえ専門店のものと遜色のない美味しさ。いつでも何処でも、美味しいものを味わうことのできる今の時代は、本当に幸せな時代なのでしょうか?

ある程度のしっかりしたタメ(日常・ケ)があってこそのお祭り(非日常・ハレ)。 めったに食することが出来ないからこその御馳走。

僕が幼少期に姉が運んできた(こんな美味しいもの生まれて初めて食べましたシリーズ)の、飛び上がるほどに美味しかった食べ物の数々は、今のものと比較するとそんなに美味しいものではなかったのでしょう。しかし、その時感じた至福感は、今どんなに美味しいものを食べても、二度と味わえないのです。

また、僕を幸せにしてくれた数々の歌謡曲の感動は、世代にわたるヒット曲が成立しない今、同じように、二度と味わうことが出来ないのです。

昔は良かったなどと言うつもりは更々ないのですが、スピード狂の今の時代、食べ物、芸能、芸術などに感動し、その感動を自身の情緒に落とし込む(しっかり反芻する)時間はもう、持つことが出来ないのでしょうか?

いったい、人の求める幸せとは何なのか?

初めて食べた美味しい食べ物。

初めて聴いた素敵な歌謡曲。

初めて涙した映画。

初めて感動した小説や詩。

初めて美しいと感じた絵画や彫刻。

初めて楽しいと思った友達や異性との会話。

初めて、初めて、初めて…。

すべての経験や感動を自身の情緒に落とし込むまでしっかり反芻し、過去のイメージを持ち越さず、何時も真っ白な感受性で物事に対峙することが出来たとき、人は、その《初めての感動》を何度も味わうことが出来るのでしょう。

そう、保育園児が《さよならはダンスの後に》を初めて聴いた時のように…。(ただし姉の歌声は除く)

おしまい