1960年代、昭和歌謡華やかなりし頃の日本人は、その歌謡界の虚構の世界をファンタジーとして、そのまま楽しめる素直さと優しさがあった。

日野てる子

綺羅星のごとく現れては消えて行った昭和歌謡曲の歌い手さんたち。中でもハワイアンの女王、日野てる子は別次元の美しさと、歌唱力で、まだ幼かった僕を夢の世界へ誘ってくれたのです。

1960年代、それはまだ、歌謡曲が流行歌として成立していた時代…。

高度成長期の真っただ中、日本は元気で活気にあふれ、どの家庭もそれほど裕福ではないけれど、誰もが明日に希望を見いだせる時代でした(ちょうど映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代)。我が家もたいそう貧乏で、夕餉のおかずがおみそ汁に漬け物、メインディッシュに目玉焼きだけ(それも半分づつ)という暮らしぶりでしたが、何故か毎日が煌めいて、とても幸せを感じて暮らしていた記憶があります。

からす

その頃僕の家には箪笥の上に古いラジオが一台鎮座しており、そこから流れてくる数々の歌謡曲が、幼年期の僕の最初の音楽体験でした。まだ3,4才の子供でしたが歌謡曲が大好きで、西田佐知子「アカシアの雨が止む時」「コー ヒールンバ」など、かすかに覚えているので、当時から色っぽい歌声に心惹かれていたのでしょう(どんだけ早熟なん)。

からす

1964年東京オリンピックの年、我が家に待望のテレビ(もちろん白黒)がやってきました。父親が崖から飛び降りたつもりで購入したもので、子供たちにとっては魔法の電気紙芝居で、飛び上がる程嬉しかった(実際、すぐ上の姉と飛び上が って喜んだ)ものです。

今まで耳に馴染んで来た歌謡歌手の歌声を こんどは映像をともなって見る事が出来るのです。当時の女性歌手は、それはそれは皆さんお美しく、何故か変な興奮をおぼえながら歌謡番組を見ていた記憶があります(だからどんだけ早熟なんや)。

からす

歌番組も沢山あって、魅力的な歌い手さんたちが素敵なヒット曲を引っさげて登場します。歌唱力は今とは比べ物にならない程レベルは高く(上手くなければデビュー出来なかった)、アレンジやコーラスも独特で、歌唱法も何かこう粘るような感じで、強烈な中毒性がありました。

その頃大好きだった曲は、西田佐知子「アカシアの雨が止む時」ザ・ピーナッツ 「恋のバカンス」伊沢八郎「あゝ上野駅」城卓矢「骨まで愛して」フランク永井「君恋し」荒木一郎「いとしのマックス」 クレージーキャッツ「ホンダラ行進曲」中山千夏「あなたの心に」キング・トーンズ「グッド・ナイト・ベイビー」高田 恭子「みんな夢の中」キリがないのでこの辺で。

からす

現代のようにシンガーソングライターが日常を歌うのではなく、詩や曲は専門家の先生たちが提供し、歌い手さんはあくまで歌唱のスペシャリスト(荒木一郎や加山雄三は除く)として専門家の先生たちが作った虚構の世界をより詩情豊かにその卓越したテクニックで歌い上げるのです。

芸能人を一般人と同列で語り、すべてを白日の下にさらしてタタキ潰すような今の世の中ではなく、当時は芸能人の作り上げたファンタジーを、そのままファンタジーとして受け取って楽しむ素直さと優しさがあった時代でした。

hondai

ここでやっと日野てる子の登場。

ハワイアン歌手の出身で、「夏の日の想いで」の大ヒットをきっかけに数々のヒット曲を飛ばします。 ハワイアン独特の節回しで歌うその歌声は妙に色っぽく、その上容姿たるや信じられない程に美しかった日野てる子

幼い(全僕)が震撼しました。

特に大好きだった「夏の日の想いで」をウィキペディアで調べた所、1965年の発売とありますので7,8才位の時ですね。 この曲は、サザンの原由子森昌子、ブルースシンガーの荒井英一などがカバーしていますが、やはりこの曲はオリジナルの日野てる子に限ります。

からす

僕にとっての昭和歌謡といえば1960年代を置いて他にありません(断言)。それほどこの時代の曲は素晴らしく、すべてにおいて輝いており、当時は高度成長の波とともに何時までも続くものと思っていました。

歌は世につれ、世は歌につれと言いますが、現代はCDも売れなくなり、幅広い世代が知っている流行歌というものが成立しなくなってしまいました。良い曲はたくさん生まれているのに、世の移り変わりがあまりにも早いため、曲が大衆の中で醗酵熟成する暇がないように思われます。

作り手はたくさんの手間と想いを込めているはずなので、もっともっと大切に、 永く聴いてあげてほしいですね。

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おしまい