人の記憶ほど曖昧なものは無いようで、特に物心つくかつかないかの頃の記憶は、その後にインプットされた情報や、無意識に自分の脳が作り上げた幻想などが渾然一体となって記憶され、それほど確かな物ではないような…。
相変わらずの戯言です。
生まれて初めて世界を感じた記憶を明確に覚えている人は、珍しいのではないでしょうか? 三島由紀夫のように、産湯に浸かったときに見た、水桶の縁に光る太陽光を記憶しているなんていうのは希有な例で、まあそんなもの覚えているわけがございません。ましてや自分の名前を呼ばれて、それに反応した最初の記憶なんて覚えている方が不思議なくらいでしょう。
で、僕の記憶を参考までに。
これは「何となく」なのですが…。
おそらく2才前後の頃のこと。父親の革靴を履いて玄関を出てヨタヨタしている背中越しに、母親に大きな声で名前を呼ばれ怒られているシーン。 その後、通りすがりのおじさんが転びそうな僕を助けてくれたような…。心地よい日差しと風を感じ、サラサラとした空気の中聴こえてくる母親の呼ぶ名前の響きは、怒っているにもかかわらず穏やかで、とても幸せな光景として記憶しているのです。人生最初のこの記憶は僕の中の原風景として、その後の思考や発想になんらかの影響を及ぼしているのでしょう。皆さんは如何でしょうか?
それはさておき、人は身内や他人から生涯に渡って色々な呼ばれ方をします。例えば、石田研二という名前の場合、けんちゃん、ケン、研二、石田君、石田、イシケン、あるいはあだ名、ニックネーム。 社会に出てしまうと、名字ならまだしも、課長、部長、社長、先生、店長等、社会的な立場や地位の呼称となり、だんだんと名前を呼んでもらえるケースが激減します。
社会に出る前は個々のパーソナリティーで呼ばれていた名前も、社会人になるとその職種や役職で呼ばれてしまう上、家庭での呼び名(お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん等)も加わって、心理学者ユングの言うペルソナ(人間の外的側面)を何枚も付け替えて生きて行く事が当たり前になります。
このように、その時々によって呼ばれる名前は変化し、呼ばれる本人もその音の響きによって何らかの変化が起きていることでしょう。 名前と同化していた個々のパーソナリティーは影を潜め、人はカメレオンの如くそのペルソナとの自己同一化を強めてしまいます。これは非常に厄介で、自身の自覚は非常に薄く、知らず知らずの内に身に付いてしまうものなのです。 定年退職したお父さんが、長年身につけたペルソナ(たとえば会社の重役職など)を外す事が出来ずに周りから煙たがられ、居場所を失うなんてケース はとても多いのでは?
社会では必要であったペルソナをはずし、名前で呼ばれていた幼年期のパーソナリティーを取り戻す作業は、還暦後の人生を楽しく生きて行く上で、とても重要ではないでしょうか。
ご自分の御名前を改めて認識し直し、最後にはその名前の呪縛からも開放されて、何もかも「0」(この世に生まれでた状態)に戻る事が出来た時、人は本来の面目を取り戻すことが出来るのでしょう。
肉体は、過去から現在、未来へと横に流れていく時間軸にありますが、精神はその時間軸からは100%自由で(何時だって上書き可能)死ぬ間際まであらゆる可能性を秘めているはず。そういう意味では、生きている限りあきらめる理由は何処にもありませんよね。
それでは今日も一日、ホンダラダホイホイっと!