《命名考》9 中島みゆき『誕生』の歌詞を読みながら、人が産まれ出て命名されることの誉を考えてみる。

中島みゆき

新時代、令和の幕開けから早くも一か月が経とうとしています。 令和元年に生を受けた新生児の誰もが、ご親族の《Welcome》の祝福と、令和元年の《宇宙の響》を乗せて命名されます。 今回は、天からの無条件の《慈愛の光》を歌う、中島みゆきの名曲『誕生』の歌詞を読みながら、新生児が命名されることの誉を考えてみようと思うのです。

実は、このブログを始めたきっかけは、NAME・ART(命名書など)の仕事のご案内ブログとして開設したのですが、いざ蓋を開けてみると《命名考》の記事なんか数えるほどで、ほとんどの記事の内容は《宇宙的無駄話》のオンパレード。おかげさまで、読者の方の数は予想を大きく上回り、沢山の方々に読んでいただいているのですが、本業の仕事には、ほぼ繋がっておりません(泣)。

最初の頃は頑張って《命名考》の記事をあげていたのですが、いかんせん飽きっぽい性格。 今現在の書きたいものが優先され、その書きたいものも一貫性がなくあっちへ行ったりこっちへ行ったりのカオスの状態。 その結果、僕のいい加減な性格が見事に反映された支離滅裂なブログとなってしまっているわけなのであります。

かみさんにも飼い猫二匹にも、

「あなたのブログには、品性、品格を感じられない!」

「ニヤァ!ニヤァ!」

と言われる始末。

からす

60年余生きてきて一度たりとも反省などしたことのないわたくしなのでありますが、かみさんはいいとして(いいんかい!)飼い猫にまで馬鹿にされてしまっては我慢の限界。今回こそは本気をだして、わたくしの有り余る品性、品格、気品、教養、神がかった洞察力を惜しみなく発揮し、今一度《命名考》をやってみようと思うのです。

とはいっても、僕一人の発想力では限界があるわけで(いきなり泣きが入っております)、僕の大好きな中島みゆきの名曲、《誕生》の歌詞を読みながら進めていこうと思うのです。 はたして、品性、品格、気品、教養、そして神がかった洞察力は発揮できるのか?(もうすでに品性を感じないニヤァ!)

からす

《生まれてくれてWelcome》

新たな生命が誕生する瞬間、宇宙のあらゆる形態のエネルギーがそこに集まり、 《 Welcome!》の響きを奏でながらその誕生を祝福します。 なぜなら、誕生に至るまでに幾千万の《偶然》を重ね、信じられないほどに入り組んだ《縁》を結び、ありえないほどの僅かな《確率》を潜り抜けた末、産まれ出たことそのものが奇跡であり、誉なのだから。

森羅万象の、《Welcome! 》 の響きの中で産まれ出た生命に授けられた《命名》は、名付け親がどなたであろうとも、大きく俯瞰してみれば天(宇宙)からの
贈り物(ギフト)なのでしょう。

このように、どのような境遇であれ、産まれ出たすべての赤ちゃんにはもれなく天から、あらん限りの《慈愛の光》が降り注ぐのです。 

その《慈愛の光》が響きとなり、文字となって具現化したものが、それぞれに命名されたお名前。 どなたのお名前も《慈愛の光》に包まれた最高で唯一無二のもの。 したがって、生涯を通して、ご自分のお名前を慈しみ、愛してあげることは、ご自身のみならず、この世のすべて(神)を愛することに通ずるはず。

《生命》《命名》に置き換えて語ってみたのですが、名曲・中島みゆき《誕生》の歌詞の内容も、僕にはこのような意味に聴こえてくるのです。 

中島みゆきの歌は、デビュー曲《アザミ嬢のララバイ》《時代》の昔から、その歌詞の素晴らしさに圧倒され続けている僕なのですが、《誕生》の歌を初めて耳にした瞬間、溢れ出る《慈愛の光》を全身に受け、

「こんな俺でも産まれてから今に至るまで、天からの《慈愛の光》はどんな時でも降り注ぎ続けてくれていたのだなぁ…。」

と、しみじみと泣きぬれたのであります。

しかし、厳しい現実の日常に戻れば、泣きぬれた《慈愛の光》など一瞬にして忘れてしまい元の木阿弥。 それでも、今を生きていることそのものにすべての意味があると思えるようになり、多少、生きていくことが軽くなったように思えたのか、思えなかったのか?

そんなわけで《誕生》の歌詞があまりにも素晴らしいので、深く聴いていただければ十分なのでしょうが、この感動を皆様と分かち合いたく、僕にはこのように聞こえた、もしくはこのように聞きたいと思ったことを だらだらと書き連ねてみたいと思うのです。 

からす

ひとりでも私は生きられるけど でもだれかとならば 人生ははるかに違う
強気で強気で生きてる人ほど 些細な寂しさでつまずくものよ
呼んでも呼んでもとどかぬ恋でも むなしい恋なんてある筈がないと言ってよ
待っても待っても戻らぬ恋でも 無駄な月日なんて ないと言ってよ

初っ端からみゆき節全開! 

この人の人間のとらえ方は常に多面的で、善と悪、美と醜、愛と憎悪などの相反するものがそのグラデーションを行き来しながら複雑に絡み合い、愛だけや、憎悪だけを取り出して語ることの無意味さを デビュー当時から歌詞に反映させています。 

そもそも、20歳そこそこのお姉ちゃんが《時代》という名曲を書き上げているのです。この時点ですでに、すべてを達観した禅宗の高僧のような境地。 僕なんぞの20歳のころは、まだ鼻を垂らしており、遊ぶことしか考えていませんでした。

中島みゆきは、人は物理的には一人でも生きられるのだけれど、誰かと一緒であれば、《人生ははるかに違う》と歌います。 

ここで安直に、人生は輝くとか、幸せな人生を送れるなどとは言わず、はるかに違うと歌うのです。 人と関わることとは、喜びと同じかそれ以上の苦しみを伴うもの。愛を知れば、その裏にべったりと張り付いている憎悪も経験するものです。それでも誰かと一緒であれば、一人で生きるよりも《人生ははるかに違う》のです。たとえ苦しみや悲しみを多く経験しようとも、《だれかとならば人生ははるかに違う》と。

それをたしかめたくて、自己肯定したいあまりに、《むなしい恋なんてある筈がない》《 無駄な月日なんてない》と言ってよと、すがります。 この辺りは中島みゆきの真骨頂。 

では、誰にすがっているのでしょうか? それは自分自身の魂に、さらにその奥のほうで繋がっている宇宙《慈愛の光》だと僕は思いたいのです。

めぐり来る季節をかぞえながら めぐり逢う命をかぞえながら
畏れながら憎みながら いつか愛を知ってゆく
泣きながら生まれる子供のように もいちど生きるため 泣いて来たのね

ここで《めぐり来る季節》の時間の流れの中で、《めぐり逢う命》と触れ合いながら、自身の発する様々な想念を添付させつつ《畏れながら憎みながら》愛を知ってゆくのです。 

憎しみと愛は陸続き、この世は不思議なもので憎しみと愛は同時に経験してしまうもので、悲しいかな愛だけを知ることは不可能なのです。もしかしたら、僕たちが知っている愛と憎しみは同じエネルギーで出来ているのかも…。

大切な人との軋轢を幾度となく経験し、出逢いと別れを繰り返し、そのたびに泣きながら《小さな生まれ変わり》を重ねてゆき、 その 《小さな生まれ変わり》 のたびに天からの《小さな祝福》を知らず知らずのうちに感じてゆくのが 僕たちの人生なのかも…。

Remember生まれた時 だれでも言われた筈
耳をすまして思い出して  最初に聞いたWelcome
Remember生まれたこと  Remember出逢ったこと
Remember一緒に生きてたこと そして覚えていること

産まれてすぐの記憶なんか誰もが覚えている訳がないのですが、それでも中島みゆき

「思い出してほしい、最初に聞いたWelcomeを」

と、歌うのです。 もしかしたら、人は記憶がなくとも本能で《Welcome》を聴いているのかも。 両親をはじめとする親類縁者の《Welcome》、そして森羅万象、山川草木鳥獣虫魚に至るすべてのエネルギーの響きで奏でる《Welcome》を。 そして、そのすべてを含んだものが《命名》となるのでしょう。


どの親御さんも、順風満帆で、穏やかで幸せな人生を送ってほしいと願うもの。しかしながら、お釈迦様が言うところの四苦八苦の人生は、苦しいことの連続です。 その苦しい人生に何らかの意味を見つけようと、人は夢を見、他者と分かり合おうとし、何者かになろうとします。でも、中島みゆきは、縁あって同時代に生きたすべての者たちを

産まれたこと、出逢ったこと、一緒にいきていたことを 覚えてさえいればいいと歌うのです。

夢破れても今を懸命に生きれば、分かり合えなくとも認め合うことは出来れば、出会ったこと別れたこと、そのすべてを覚えて(肯定)さえいれば、きっといつかは、 最初に聞いた《Welcome》を思い出せるはずと……。

ふりかえるひまもなく時は流れて 帰りたい場所がまたひとつずつ消えてゆく
すがりたいだれかを失うたびに  だれかを守りたい私になるの
わかれゆく季節をかぞえながら  わかれゆく命をかぞえながら
祈りながら 嘆きながら     とうに愛を知っている…

人生流転。

変わらないものは何一つなく、場所も物も人も、現れては消えてゆくもの。諸行無常の響きの中で季節は廻り、祈りながら嘆きながら時は流れて、人はとうに《愛》を知っていることを気付くのでしょう。 

ここでいう《愛》とは、先ほどの《愛と憎》《愛》 ではなく、対立概念のない《愛》。 そう、産まれた時最初に聞いた《Welcome》、それを響かせた、天からの《慈愛の光》こそが、僕たちがとうに知っていた《愛》だったのです。

忘れない言葉はだれでもひとつ  たとえサヨナラでも愛してる意味

天からの《慈愛の光》は、どのような言葉を発しても《愛してる》の響きなのです。 そうであれば、人生で遭遇する喜怒哀楽のすべての出来事が、《愛してる》の響きを奏で、理屈抜きの全肯定が始まり、その時初めて人生の意味が分かるのでしょう。

Remember生まれた時   だれでも言われた筈
耳をすまして思い出して 最初に聞いたWelcome
Rememberけれどもしも思い出せないなら 
わたしいつでもあなたに言う 

生まれてくれてWelcome

最後に中島みゆきは大いなる母性(神)となって、僕たちに囁きます。 人に羨望される人生でも、どこまでも惨めな人生でも、夢を叶えても、叶えられなくても、想いが伝わっても伝わらなくても、その時々で懸命に生きてさえいれば、何時だって誰にでも等しく、天からの《慈愛の光》は注ぎます。

だから思い出してほしい、何時だって私はあなたに言う、
「生まれてくれてWelcome」と。

  
Remember生まれたこと
Remember出逢ったこと  
Remember一緒に生きてたこと

そして覚えていること

皆さん、無条件で自分自身を認めてあげましょう。 どんな境遇でも、どんなハンディーを抱えていても、この世に産まれてきた事それだけで、100パーセント《Welcome》であり、誉なのだから。 

そして《命名》されたお名前は、その祝福の結晶なのだから。

だからこそ 《命名》 は尊く、誉なのです。 そういう意味で《命名》 されたすべてのお名前は完璧で、そのお名前を目いっぱい愛しつつ、天上天下唯我独尊で人目を気にせずに、堂々と人生を楽しめばいいのです。

からす

最後に、

中島みゆきのどの曲の歌詞も、僕には皆が共有している《宇宙的無意識》からのメッセージに聴こえるのです。やはりこの人は永遠のフォークシンガー。デビューしてから今まで、一貫して弱者の視点から語り掛けます。

どのような人生にも、等しく天からの《慈愛の光》は降り注ぎ 、そして等しく誉なのだと。

からす

中島みゆき《誕生》は、残念ながらYouTubeには上がっておりません。今回は、また違った美しさを奏でるBEBEという方のカヴァーでお聴きください。

おしまい