命名で使用する、漢字・ひらがな・カタカナの文字の中には、幾千万もの意味・感情・衝動が含まれています。記号化されてしまった文字なのですが、それらを注意深く音に響かせ書に記すれば、虹色のグラデーションが現れ、そこから豊かな情緒が育まれます。
はい、久しぶりの本業の記事《命名考》です。
興味深い出来事や、エンターテーメントの方が優先され、本業とまったく繋がらない記事ばかり上げてしまい、何のブログかわからない様相を呈している《からすの落墨》。なので、ここでちょっとひと休み(いや、これが本業やちゅーとんねん!)。
想いを込めて命名されたお子様のお名前は、本人、親類縁者、知人友人ら、すべての人々の感受性を通して呼ばれ書かれます。願いや希望など沢山の意図をもって命名されたお名前は、そのように呼ばれ書かれるうちに、独自の色や響きが付き始めます。
親御さんが生涯に渡って、 何千何万回と呼び続けるであろう我が子のお名前は、ご両親の感受性の豊かさによって彩られます。したがって、ご両親がそのお名前を大切に美しく育てるには、ご両親自身の感受性も、同時進行で豊かになって行くことが必要になってくるはず。
例えば《愛子》ちゃんという名前の場合、愛情の様々な側面やその情景がイメージされます。愛すること、愛されること。《愛》と裏表であり、陸続きでもあ る《憎》に至るまでの赤から青に変化するグラデーション。また、それらすべての風景を、菩薩的な包容力で包み込む様な《慈愛》。
《愛》という字はただの記号なのだけど、ご両親の想念の色と響きによって彩られたお子様のお名前は、確実にある種の引力を持ち始めます。
人生の様々な局面で遭遇する風景(心象も含む)を 美しいと感じ取れる《愛(感受性)》の豊かさは、まず、その名前に込められたご両親の《愛(感受性)》の豊かさで決ってくるのでしょう。感受性の豊かさは、その子の人生において対立概念のない《幸せ》の空気感を演出します。
そこで、その感受性の豊かさのヒントとなるのが、やさしいことばで綴られる《詩人・長田弘》の詩なのです。
難解な言葉や比喩を極力避け、日常で使われるありふれた言葉で語られる長田弘の詩は、なんでもない日常の風景の中に、一瞬の煌めきを現します。 日常の中で何気なく置いて行く想念の色や響きは、よくも悪くも、過去を変え未来をつくるのでしょう。
表紙の書は、詩人・長田弘の《最初の質問》という詩の冒頭部分の抜粋です。
http://gift-kou.com/?mode=cate&cbid=2296686&csid=6
《最初の質問》
今日あなたは空を見上げましたか。
空は遠かったですか、近かったですか。
雲はどんな形をしていましたか。
風はどんなにおいがしましたか。
あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか。
「ありがとう」という言葉を今日口にしましたか。
窓の向こう、道の向こうに、何が見えますか。
雨の滴をいっぱいためたクモの巣を見たことがありますか。
樫の木の下で、あるいは欅の木の下で、立ち止まったことがありますか。
街路樹の木の名前を知っていますか。
樹木を友人だと考えたことがありますか。
この前、川を見つめたのはいつでしたか。
砂の上に座ったのは、草の上に座ったのはいつでしたか。
「美しい」と、あなたがためらわず言えるものは何ですか。
好きな花を七つ、挙げられますか。
あなたにとって「わたしたち」というのは、だれですか。
夜明け前に鳴き交わす鳥の声を聴いたことがありますか。
ゆっくりと暮れていく西の空に祈ったことがありますか。
何歳の時の自分が好きですか。
上手に年を取ることができると思いますか。
世界という言葉で、まず思い描く風景はどんな風景ですか。
今あなたがいる場所で、耳を澄ますと、何が聞こえますか。
沈黙はどんな音がしますか。
じっと目をつぶる。すると何が見えてきますか。
問いと答えと、今あなたにとって必要なのはどっちですか。
これだけはしないと心に決めていることがありますか。
いちばんしたいことは何ですか。
人生の材料は何だと思いますか。
あなたにとって、あるいはあなたの知らない人々にとって、
幸福って何だと思いますか。
時代は言葉をないがしろにしている。
あなたは言葉を信じていますか。
長田弘の言う《言葉》とは、その意味よりも、どのような場所で、誰が誰に、どのような心持ちで、どのような色で、どのような響きで放ったかという、そのロケーションやシチュエーションを含めたもの。
《大嫌い》と言い放った彼女の言葉の色や響きは、その意味合いを越えて、《愛してる》や《私を見て》《助けて》等に聴こえる事も。 しかしたまに、文字通りの意味で使われているにもかかわらず勘違いをしてしまい失敗する、鈍感な僕のようなケースもあるのですが…。
この詩は、「日常の風景に対しての想念の置き方が、豊かな感受性を育み、それこそが人生の意味なのではないのか?」と、問うています。
例えば「空」という漢字の中に内包されている様々な景色とそれに伴う想い。それはその景色を受け取る人によって、豊かにも貧しくにもなります。
微妙な色の違いや、音の響きの違いの判別は、人によって大きく異なるように、「空」の景色を見て受け取る感受性も、人によって大きく異なるはず。 「空」の文字の中に閉じ込められた、言葉や文字では表せない圧倒的なリアリティーを《感受性》は柔らかく溶きほぐしてくれ、その情感を人の心に染込ませてくれるのです。
《名前》という言霊は、人がそれを発したり書いたりした時の想念によって、その文字の意味を大きく越え、時間さえも越えた普遍性を帯びます。ですから、命名された後に添付される言霊のほうが、名前そのものの意味合いより、より大切なのかもしれません。
最後に、「世界の片隅の自分しか知らない、取るに足らない一瞬の風景をどう感じ取るのか? それを自身の情緒として、熟成し醗酵することが出来るのか?」が、《幸せ》を生きるヒントであることを僕に教えてくれた、長田弘の詩をもう一つ。
「世界はうつくしいと」 長田弘
うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風の匂いはうつくしいと。
渓谷の石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光りはうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる、晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇り日の、南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。
過ぎてゆく季節はうつくしいと。
さらりと老いてゆく人の姿はうつくしいと。
一体、ニュースとよばれる日々の破片が、
わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ永遠なんてなく、
いつか すべて塵にかえるのだから、
世界はうつくしいと。
今年一年、《からすの落墨ブログ》にお付き合い頂き、ありがとうございました。
そして、《ギフト煌》にご注文頂いた皆様、ありがとうございました。
来年も宜しくお願い致します。
皆様の心の内に、うつくしい世界が煌きますように…。
良いお年を。