詩人《長田弘》 繊細で美しすぎる感性で紡がれた、言葉と思念の響き。《ことば》の可能性を最後まで信じた、ヒリヒリするほどの感受性。

長田弘

記号として変換されデジタル化された様々な言葉を、豊かな感受性で解凍し、言葉になる以前の《沈黙》を 詩情豊かな《ことば》として再現させる、詩人・長田弘。

あけましておめでとうございます。
今年もお付き合いの程、宜しくお願い致します。

からす

年末から年をまたいで僕の脳内で繰り返えされるフレーズ、

《何もないところにしか見つけられないものがある》

《立ち止まる》 長田弘

立ちどまる。
足をとめると、
聴こえてくる声がある。
空の色のような声がある。

「木のことば、水のことば、
雲のことばが聴こえますか?」
「石のことば、雨のことば、
草のことばを話せますか?」

立ちどまらなければ
ゆけない場所がある。
何もないところにしか
見つけられないものがある。

人の心と頭の中は、常に感情と言葉に溢れています。《雑感》《雑念》は、《自我》という強固な核から発せられた、過去の後悔と未来への不安の産物。しかし、人が強烈にイメージしている《自我》なるものとは、はたして何なのか? それは、この世に生まれ世界を認識いく中で、様々な軋轢を経験し、それを回避、解決しようとするためにイメージされた自己防衛の為の鎧と剣なのでしょう。

経験が深まれば深まるほど、その鎧と剣は強固になり、その微かな隙間からしか世界を見ることが出来なくなります。

からす

《自我》なるものは非常に厄介で、《自我》から発せられた衝動で始まる、人々の様々な行動は(ほぼ100%)、世界にとって害でしかないという極論を多くの哲学者や宗教家が唱えるのです。

《自我》から発せられた衝動である限り、どんな大義名分を掲げたところで《自我》を満足させるものでしかなく、その自己欺瞞は、宇宙に対して不協和音の響きにしかならないと…。

《雑感》《雑念》の、《自我》の鎧と剣は、自己防衛や欲望達成の衝動の中では肥大化するのですが、ストレスの少ないリラックスした状態や、睡眠時にはその存在が薄れ、その時始めて森羅万象のささやきが聞こえてくるのです。

からす

自身の《雑感》《雑念》が渦巻いている限り、ありのままの世界認識は不可能で、そのすべての動きが止まり、立ち去った後に始めて場所がうまれ、見えなかったものが見えてくるのでしょう。

立ちどまらなければ
ゆけない場所がある。
何もないところにしか
見つけられないものがある。

からす

もしかしたら《自我》などというものは、自身が作り出したイメージでしかなく、本来存在しないものなのかも…。

心的なイメージを蓄積させずに(自我の消滅)、常にイメージを流しながら生きていくことが出来たら、常に生まれたままのまっさらな視座で世界と対峙出来るはず。

長田弘は、《ことば》の可能性を最後まで信じました。しかし長田弘の言う《ことば》とは、その意味合いを大きく越え、《言葉》として記号化される以前の様々なもの(状況、時間、色、匂い、音、温度など)をすべて含んだものを差します。

森羅万象のささやきのすべてを《ことば》として捉え、長田弘にとって、その《ことば》《考える》こととは、《雑感》《雑念》の、《自我》の鎧と剣を脱ぎ捨て、むきだしの感受性でもって《沈黙》を感じることなのでしょう。

その《沈黙》に内包されている言葉になる以前の《ことば》を聴きとり、比較、優劣、善悪、美醜、意味無意味などの分別を越えた境地に少しでも近づくことが出来たなら…。

《表現じゃない。ことばは認識なんだ。感情じゃない。ことばは態度なんだ。》と、長田弘は詠います。

《こういう人がいた》 長田弘

誰でもない人がいた。
いつでもない日に、
どこでもない場所で、 
何も書かれていない本を
黙って、読んでいた。

見つめねばならないものを
見つめねばならないときは、
黙って、目を閉じ、
話すことのできないことは、
話すことのできないことばで、
黙って、話した。

表現じゃない。
ことばは認識なんだ。

誰でもない人の
無言のことばを、
どこにもいない人が、
じっと聴いていた。

誰でもない人は、
姿のない人のように、
誰にも気づかれず、
黙って、
ここにいた。

感情じゃない。
ことばは態度なんだ。

わたしたちのあいだには
いつも、どこかに、
沈黙からデリカシーを
抽きだす人がいた。

誰でもない人がいた。

いまは、いない。

《誰でもない人》とは、《自我》のフィルターをはずした、自身の胸の奥深い所に眠っている《むきだしの感受性》なのでしょう。

そして《むきだしの感受性》に至るまでの乗り物が《ことば》であり、《認識》《態度》を乗せた《ことば》の船は《自我》と言う長くて大きな河をくだり、《沈黙》という《宇宙的無意識》 の大海へ溶け込むのでしょう。

僕たちは、何時になったら長田弘の言う、《沈黙》の饒舌さを、美しさを感じることができるのでしょうか?

からす

最後に大好きな、長田弘・《こんな静かな夜》を書にしたためまして…。

こんな静かな夜1こんな静かな夜2こんな静かな夜3こんな静かな夜4こんな静かな夜5こんな静かな夜6 こんな静かな夜7こんな静かな夜8こんな静かな夜9こんな静かな夜10

音の書2

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《こんな静かな夜》 長田弘

先刻まではいた。今はいない。
ひとの一生はただそれだけだと思う。
ここにいた。もうここにはいない。
死とはもうここにはいないということである。

あなたが誰だったか、わたしたちは
思いだそうともせず、あなたのことを
いつか忘れてゆくだろう。ほんとうだ。
悲しみは、忘れることができる。
あなたが誰だったにせよ、あなたが
生きたのは、ぎこちない人生だった。
わたしたちと同じだ。どう笑えばいいか、
どう怒ればいいか、あなたはわからなかった。
胸を突く不確かさ、あいまいさのほかに、
いったい確実なものなど、あるのだろうか?
いつのときもあなたを苦しめていたのは、
何かが欠けているという意識だった。
わたしたちが社会とよんでいるものが、
もし、価値の存在しない深淵にすぎないなら、
みずから慎むくらいしか、わたしたちはできない。
わたしたちは、何をすべきか、でなく
何をなすべきでないか、考えるべきだ。

冷たい焼酎を手に、ビル・エヴァンスの
「Conversations With Myself」を聴いている。
秋、静かな夜が過ぎてゆく。

あなたは、ここにいた。
もうここにはいない。

おしまい

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