詩人・田村隆一《帰途》 沈黙に内包されていたすべての言葉たちが解き放たれた時、思考(時間)が動き出し世界が曇り始める。

田村隆一

言葉、思考、時間の範疇で捉えきれないもの(ありのままの世界)をあえて言葉で表現しようとする詩人の詩は、確実に矛盾を孕みます。それは時間の範疇にない《永遠》を時間で測るようなもの。

あけましておめでとうございます

昨年、当ブログの戯言にお付き合いいただいた皆様、又、《ギフト・煌》の商品をご購入いただいた皆様、誠にありがとうございました。


本年もよろしくお願いいたします。

からす

昨今の世界情勢を鑑みたとき、2019年は激動の時代の幕開けとなる予感。日本の元号も新たになることから今年は大きな変換期となることでしょう。
それは、この地球に住む全ての人々(生命)の精神性にもシンクロしており、個人レベルでも精神的な変革や価値観の変換を求められる年となるのではないでしょうか?

当ブログも開設して2年程。当初は誰も読んでくれない想定で、僕自身が日頃思っている事柄を整理する意味合いで始めたのですが、有難いことに沢山の方々に読んでいただけるようになり、人生ではじめて文章《言葉》を媒体にして思いを伝えるという経験をする事が出来、皆様には感謝の気持ちでいっぱいなのです。

しかしながら《言葉》を使って文章を構成することの難しさを痛切に感じる今日この頃。

からす

小学生時代、読書感想文を三年連続して《フランダースの犬》で提出し、先生にこっぴどく叱られた経験を持つほど読書嫌いだった僕なのですが、幼少期から《言葉》というものがとても不思議に感じており、あらゆる物事や感情を《言葉》に置き換えた瞬間に、経験したその《感じ》が違うものになったり消えてしまったりを体験していたため、読書感想文や作文のような経験や感情を《言葉》に置き換えることが非常に苦手だったのです。

大人になって詩や俳句、小説等に多少なりとも興味を持ち始めたとき、文士の人達は、《言葉》で伝えることが絶対に不可能なものを《言葉》を駆使して表現しようとしているのだと気付くのです。その時、何と不条理なことをやっているんだと驚愕し、改めてリスペクトしたものです。

そこで


田村隆一 《帰途》

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか


あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ


あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう


あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか


言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる


からす

この詩は、何度も何度も読み返しながら、自分の理解する《言葉》《思考》《時間・空間》に照らし合わせ、《言葉》以前と以後の世界を空想、妄想していくことによって、最終的に僕の中では、宇宙の始まり《ビッグバン》に行きついてしまったのです。

聖書・創世記の冒頭に《始めに言葉ありき》とあるように、この世《宇宙》《言葉》と同時に始まったのです。

では《言葉》以前、以後、の世界とは?

からす

よく言われているように、神は自身を認識、確認するために世界を創生しました。認識も確認も一切必要としない特異点から、意識という微かなゆらぎが起こり《ビッグバン》は始まります。(今現在、理論物理学の世界ではビッグバン理論の矛盾点が指摘されておりますが、とりあえずそれは置いといて)

《人間は考える葦である》

フランスの偉大なる哲人・パスカル先生がおっしゃられたように、人間は《思考》することによって《主体》《客体》の認識を得ます。そして《思考》するための絶対的な条件として《言葉》が存在するのです。 世界には様々な言語が存在しますが、その言語の成り立ち、様式が《思考》の本質を決定付けます。《言語》=《文化》《言語》=《民族の歴史》と言われる所以はここにあるのでしょう。世界の共通言語は必要なのでしょうが、それぞれの民族の言語は最も大切な文化として無くしてはいけないものなのでしょう。

《言葉》以前とは人間以外の動植物の状態で、生命体として本能で生きています。高等な生物は記憶、学習はするのですが、言葉を持たないため《主体》《客体》の認識を持てません。よって《私》という認識がないため当然のように《世界》という認識を持てないのです。量子力学の世界の、「観察者が出現して初めて世界が生まれる」という極論から言えば、人間以外の動植物にとって、世界は無きに等しいのです。人間も赤ちゃんが《言葉》を覚え、何らかの《思考》が始まりかけたときから物心が付き始め、《主体》《客体》の世界認識を始めます。

からす

ここでやっと田村隆一の詩《帰途》に戻ります。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

この冒頭の一節は、今までダラダラと書いてきたことにつながるのですが、人間の赤ちゃんに例えていうなら、《言葉》を覚える前は、一元論(ビッグバン以前)の世界の住人で、あらゆる事象を《言葉》に置き換えず、《主体》《客体》に分離される以前の《全体》で経験するため、赤ちゃんの見る世界は何のフィルター(自我)も通さないとてつもなく美しい世界だと思われるのです。いわゆる神(永遠)の視座で世界を見ているのです。《思考》が介入しない、「意味が意味にならない世界」は、永遠の世界。そこには時間は存在しません。

しかし、人も神と同様に、自身を認識、確認するためにこの世界に生まれ出てくるのです。絶対安心(ビッグバン以前)の世界から産道を潜り抜け、否応なしにこの世界(ビッグバン以後)に産み出された赤ちゃんの最初の泣き声は、これから覚えなければならないすべての《言葉》《思考》が含まれた魂の咆哮なのかもしれません。

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

《言葉》はその性質上、すべて二元論で成り立っています。物事を分離し、その異差で分類、記号化したものが《言葉》。

人はその《言葉》を使って、認識、記憶、比較するのです。当然自分自身も《主体》《客体》に分離され《私》《世界》の間に距離と時間が生まれてしまいます。あなたが《美しい》と発したと同時に《醜い》が立ち現れ、事象を美醜に分類してしまった分別に、いつの日かあなたは復讐される運命にあるのです。

しかし、ぼくが《言葉》を知らなければあなたとの《共鳴》は生まれても、《共感》は生まれません。継続する関係性(感情)は生まれないのです。そして《言葉》をもったきみは必然的に《思考》をはじめ、事象に重たい《意味》を添付します。それはすぐさま、きみの上にのしかかり、その重みに苦しむのですが、それは《言葉》を知らない僕には無関係なのです。

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙、それは《言葉》=《思考》がうんだ《過去》《未来》の産物。何故なら《思考》は今この瞬間(全体)を捉えることは不可能で、過去と未来(部分)しか捉えることが出来ません。そして《言葉》を知らないぼくには、過去と未来は存在しないのだから。 そしてきみの痛苦も、《私》《世界》の間に距離と時間をうみだした《言葉》=《思考》の産物

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

《言葉》のなかった世界では、あなたの涙に《意味》を求めなかったゆえに、果実の核ほどの意味が確実にあった。

《言葉》のなかった世界では、きみの一滴の血に《意味》を求めなかったゆえに、夕暮れのふるえるような夕焼けのひびきが確実にあった。

《言葉》のなかった世界では、《共感・時間》はなく、《共鳴・永遠》のみがあったのです。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

最後に、ぼくは《言葉》をおぼえてしまった世界からの視座で、再びあなたときみの元に戻ります。

《言葉》は《思考》
《思考》は《時間》
《時間》は《思念》

そして《思念》《過去》《未来》

《言葉》をおぼえ、《思考》が始まった瞬間(ビッグバン以後)に、ぼくは《全体》から《主体》《客体》に分離され、ぼくとあなた、ぼくときみの間に時間《感情》が生まれ、その《感情》《共感》《軋轢》を引き起こし、あなたの涙のなかに立ちどまることとなり、ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくるのです。

しかし僕たちの世界認識は、この《共感》《軋轢》を通して始まり、《言葉》《思考》は、この世に生まれ落ちた《意味》でもあるのです。

からす

《言葉》をおぼえ《思考》をはじめ、《共感》《軋轢》のなかで喜怒哀楽の泥沼をのたうち回りながらの《幻想》を通り過ぎた先に、はたして人の心に蓮の美しい花が咲き誇るのか?

からす

この《帰途》の詩を 何度も読み返すうちに、僕は詩人・田村隆一《言葉》に対しての溢れんばかりの愛おしさを感じてしまうのです。

だからこそぼくたちは《言葉》《思考》の世界を今一度飛び越えて、一元論(ビッグバン以前)の世界に辿り着く帰途なのだとのメッセージを読み取ってしまうのです。

全てを経験した旅路の果てに……。

田村隆一自身の意図や専門家の解説を全く知らないまま、僕がそう読みたい、そう感じたいと思うままに書き散らかしてしまったので、見当違いも随所にあり、異論も限りなくございましょうが、そこはお許しを。

からす

しかしながら、元号も変わる2019年、既にビッグバン級の変革期と感じる昨今、この詩《帰途》の放つメッセージは、大きな意味を持っているのではないでしょうか? 

有史以来続いた《言葉》《思考》《主義》《理屈》《主体・客体》《共感》の時代から《全体》《存在》《永遠》《共鳴》の新時代への大きな変革期。 物理的なシステムの変革と同時に、人それぞれの精神性の在り方、世界認識の変革が問われる時期に差し掛かっているのでしょう。

からす

最後に、僕が若い頃読んで、大変共鳴した《ベントフ氏の超意識の物理学入門》という本の中に、簡単な宇宙モデルが記されています。(下図)

《ベントフ氏の宇宙モデル》


このリンゴ型の宇宙モデルの中心にビッグバン(ブラックホール・ホワイトホール)という、有から無へ、無から有への特異点があり、このサイクルを始まりも終わりもなく無限にループしている運動そのものが宇宙。 これを人間の精神に置き換えて考えてみると、中心のビッグバンが誕生・死の特異点であり、こここそが《言葉以前》《言葉以後》の、そして《共鳴》《共感》の分岐点なのです。

本当はこの図のようなシンプルな構造体ではなく、もっと複雑で入り組んだものなのでしょうが、僕的にはしっくりくるモデルなのです。
更にはベントフ先生の世界認識のシステムの解説が非常に面白く、《言葉》《思考》《時間》を通しての世界認識のシステムしか知らない僕たちからすれば目から鱗で、《時間》《空間》《意味》を簡単に飛び越えて、一瞬にして世界認識を可能にするそのシステムは、イエスブッタ等の覚醒した人物が得たものなのでしょう。 しかしながら人間である限り誰もがその可能性を秘めているはず。

新たな元号に変わる今年こそ、《言葉》《思考》《時間》を超越した《共鳴》の世界へ。 

絵空事と思われるでしょうが、小鳥のさえずりや狼の遠吠えのシンクロニシティのように、《意味》を持たない森羅万象の響きに人間がシンクロ《共鳴》して生きていく事が、人それぞれの精神性の在り方、世界認識の変革に繋がっていくのではないでしょうか?

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