詩人《金子みすゞ》の祈りと絶望。自らの命を泥の沼に沈め、死後50年の時を経て、その絶望の沼に一輪の花を咲かせた、金子みすゞの祈りとは?

金子みすゞ

夭逝の童謡詩人、金子みすゞ。その短い生涯の間に500余編もの詩を綴ります。子供のままの感受性で世界を感じ、純粋無垢な視座から、広く俯瞰した神の視座へダイナミックに移行するその詩編の振り幅は、自身の祈りと絶望の人生に、転写されてしまうのです。

どうしてこんなにせつないのでしょう?

どうしてこんなに悲しいのでしょう?

どうしてこんなに寂しいのでしょう?

純粋無垢な金子みすゞの詩を読んだり書にしたりする時、いつも胸が締め付けられるほどに、切なく感じるのは僕だけでしょうか?

Wikipediaによると、ほぼ忘れ去られていた童謡詩人・金子みすゞは、同じ童謡詩人・矢崎節夫の手により遺稿集が発掘され、1986年に出版されると、その詩は瞬く間に世に広まります。また、東日本大震災後に流されたACジャパンのCMによって、より知名度が高まりました。

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詩人や作家になった人の多くは、現実を生きることが苦手で、幼い頃より常に、空想、妄想の世界で一人遊びを好んでいたようです。金子みすゞの幼年期はどうだったのでしょうか?頭脳明晰であったことは事実でしょうが、どうしても人とのコミュニケーションの得意な子ではなかったように思うのです。父親が突然、不慮の死をとげ、実弟が養子に出されたり、母親が再婚したりと、家庭環境は複雑な境遇ではあったようです。

叔父の勧められるが侭に、叔父の経営する書店の番頭格の男性と結婚した頃より、徐々に人生の歯車が狂いだします。金子みすゞの生涯は、何度もドラマ化や映画化されていますが、その多くは、夫の酷い仕打ちに耐えぬき、死を持って我が子を守り抜いたように描かれていますが、はたして真相はどうだったのでしょう。

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夫婦に限らず、人と人との関係性は、その組み合わせによって多様な音を奏でます。関係性というのは相互の行いと想念が、時の流れの中で影響し合いながら成り立ってゆくものでしょう。

金子みすゞの綴った多くの詩は、弱者からの視点で語られ、優しさや、思いやりに満ちている大変美しいものなのですが、明るさに乏しく、笑顔が連想されにくいのです(僕だけなのか?)。

これほどに鋭い人間心理の洞察力は、常日頃、自身の内面に渦巻く深い想念を冷淡な心で観察し続けた結果なのではないでしょうか? 人間である限り誰もが持つ、自我の汚さや、ずるさを人一倍認識出来たからこその、優しさや、思いやりだったのでしょう。

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最悪なクズな夫を一方的に悪者とし、金子みすゞを必要以上に美化することは、その本質を見えなくする行為ではないのか?

人は、金子みすゞの詩を読むにつれ、儚くも美しい花を見るのと同時に、無意識に、その土壌である暗い沼をも感じてしまうからこそ、よりいっそうの優しさを感じているのではないでしょうか?

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クロ1

クロ2

《犬》

うちのダリアの咲いた日に 酒屋のクロは死にました。           

おもてで遊ぶわたしらを いつでもおこるおばさんが

おろおろ泣いておりました。

その日学校でそのことを おもしろそうに話してて 

ふっとさみしくなりました。

この詩は深いです。 あらゆる自己欺瞞や自己正統化を排除し、俯瞰した視座を持った金子みすゞの眼。いつも私たちを怒ってばかりいるおばさんが、飼い犬、クロの死によってオロオロ泣いているその姿に対して、(おもしろい)という感情が沸き起こり、溜飲を下げた思いの自分の心に気付き、何らかの後ろめたさを覚えます。

小さな小さな自我の視座から、大きな大きな神の視座に、ダイナミックに視点が移行し、「ふっとさみしく」なるのです。光と影善と悪私とあなた。相反する間逆の視点を語ることによって、ものの本質を著す手法は、金子みすゞの真骨頂なのでしょうが、ここにも、自身の心の暗い闇をも感知してしまう豊かな感受性を持つが故の苦しみがともなっているのでしょう。

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蓮と鶏1

蓮と鶏2

音の書2

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《蓮と鶏》

泥のなかから蓮が咲く。  それをするのは蓮じゃない。

卵のなかから鶏が出る。  それをするのは鶏じゃない。

それに私は気がついた。  それも私のせいじゃない。

《蓮と鶏》という詩です。 金子みすゞは、篤信な浄土真宗の家に育ち、幼年期、おばあちゃんと共に毎日欠かさずお仏壇に手を合わせていたそうです。その教えが染み付いた、みすゞの渾身の代表作です。

親鸞上人の浄土真宗の(他力本願)という根本思想の本質を見事に、たった6行の短い言葉で言い表しています。

やはり難解な宗教書や、哲学書では万人には伝わり難く、魂でその思想を理解している人は、こんなにも簡単に、優しい言葉で表現できるものなのですね。

他力本願とは、人生においての不条理(運命や宿命)を理屈抜きですべて受け入れた上で、キリストの言う許し(愛)を持って、明るく前に向かって生き抜くこと。 そしてもっとも大事なことは、怒り憎しみに対して、寛容(明るい笑顔)でもって対峙することにあります。

そこには《和顔施》とういう重要なキーワードが潜んでいます。

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《和顔施》

人生において、笑顔の持つ意味は計り知れないほどに大きな意味を持ちます。(怒り)や(憎しみ)が闇なら、(笑顔)は光。光(笑顔)は、瞬時に闇(怒り憎しみ)の存在を無くします。(笑顔)は、(怒り憎しみ)の対立概念ではなく、独立した一つの現象なのです。

幸せは、理由があって幸せを感じるのではなく、まず、理由無しに《笑顔》の風を吹かせ、その優しい風が幸せの(気)を作り出すようです(赤ちゃんの笑顔がそうであるように)。

金子みすゞの一連の童謡詩にも、この《和顔施》の思想が根底にあり、森羅万象の一切を必要不可欠のものとして慈しむ優しさに満ちています。そして、自身もそのように生きたいと深く祈り続けていたのでしょう。

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世の中には様々な運動があります。この世をより良くする為の、人種差別反対運動、戦争反対運動、原発反対運動。この、反対運動の本質は、現状や体制に対しての大きな《怒り》にあります。それぞれの運動家が、その目的達成のために理想を語るその顔を観た時、そこには《怒り》《嘆き》の念が渦巻いてしまうのです。平和を求めるはずの心が、いつの間にか《戦い》《怒り》の想念に巻き込まれてしまうのは、何とも悲しいものですね。

しかし、(笑顔)は対立概念を生みません。理想論と言われればそれまでなのでしょうが、祈りと笑顔の《和顔施》こそ、様々な問題そのものを消滅させるキーワードなのではないのでしょうか?

インドの諺にもあります。

「怒りに対して怒りで応えぬ者は、汝と相手の双方を救うだろう。」と。

対立概念を生むすべての運動は、新たな恨み、憎しみの連鎖を生み、それは果てしなく続いていくもの。

自分を見ればよくわかりますよね。逆上癖のある僕は、怒りに任せて相手を非難している自分の顔が窓ガラスに移ったのを見た時、「この顔はダメだ」 と、愕然とした経験があります。《怒り》の理由が正しいか間違いかなどはどうでもよく、《怒り》にはものを破壊したり憎んだりする力はあるものの、 解決したり、わかり合えたりする力は備わっていないのでしょう。

そうは言ってもアホな僕は、その後の人生においても、何度となく怒り続けるのですが、その度にガラスに映った自分の顔を思い出すことによって、なんとか自制することが出来たり、出来なかったり…。

からす

話を金子みすゞに戻しますと、

死に至るまでの数年間、夫の酷い仕打ちによって、《和顔施》の深い祈りとは裏腹に、深い憎しみを募らせてしまった金子みすゞ。離婚後、幼い娘の親権を巡って、元夫との争いを《服毒自殺》という、もっとも悲しい結末で終わらせなければならなかったみすゞの心情は…。

優しさ(蓮の花)の花を咲かせる感受性が磨かれると同時に、人間の持つ、闇(泥沼)の深さをも知ってしまうという、パラドックスに金子みすゞは、 潰されたのでしょうか?

絶望の深い泥沼に散った金子みすゞの魂は、50年の時を経て観音菩薩の慈悲の手で救われ、その深い祈りは、暗い泥沼から大輪の蓮の花を咲かせます。生前果たせなかった《和顔施》の祈りを込めた美しい詩に乗せて、今日も僕たちに、(明るい方へ、明るい方へ)のメッセージを送り続けてくれています。

akarui3

おしまい