《カズオ・イシグロ》ノーベル文学賞受賞を期に、遠い昔に観た映画《日の名残り》の感動を思い出す。

日の名残り4

あまりにもせつなく、あまりにも美しい、成就されずに黄昏れて行く純愛。アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンの名演は、小説とはまた違った慕情を醸し出します。それは胸が張り裂ける様な、上質なプラトニック・ラヴストーリー。(ネタバレありです)

ノーベル文学賞受賞の《カズオ・イシグロ》を今までまったく知らなかったアホな僕なのですが、代表作でブッカー賞受賞作《日の名残り》の題名を聞いた時、「え!もしかしたらあの映画?」と、遠い昔に観た映画を思い出します。

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かみさんがヨーロッパのTVドラマにハマっており、この雰囲気が好きならと、ことあるごとに「アンソニー・ホプキンスの執事の映画が最高にいいけ、絶対に観た方が良い!」と何度も言っていたのですが、題名を覚えておらず、調べることもなくそのままになっていました。その映画の原作が《カズオ・イシグロ》の小説《日の名残り》とわかったときは最高に嬉しかったのと、なぜあれほどに惹かれたのかが、何となくわかった様な気がしたのです。

早速、小説《日の名残り》を購入。25年前に観た映画で、強烈に焼き付いた映像を脳内再生させながら読み進めていくのですが、映画とはまた違った主人公像が立ち現れます。いかにも英国人らしい、自分の美意識や道徳観に自信を持ち、その絶対的な正義感から周りを見下ろすような、鼻持ちならない執事の不器用な人生を描きます。

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仕える主人と英国の栄光から黄昏に至るまでの時の流れに、自身の人生を重ね合わせ、それまで抑圧してきた遠い昔の慕情や郷愁のすべてが、人生の黄昏時に押し寄せて来たにも関わらず、それでも尚、自身の《品格》という様式美で生きようとする執事の物語。

小説では、純愛の要素が押さえられており、主題は《品格》《様式》に捕まった人生の苦しさや滑稽さや哀しさを 英国の栄枯盛衰と響き合わせたもののように感じました。

映画での、アンソニー・ホプキンスエマ・トンプソンの、抑圧された色気と哀愁の滲み出た純愛物語が、強烈に脳裏に焼き付いていたので、僕的には映画の方が何倍も心に響いたのです。

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まだ若い頃、得意先に仕事を収めた帰り、何の予備知識も入れず何の映画をやっているかも知らないまま、僕はよく一人で映画館に寄っていました。 ハズレも沢山あり、そんな時は決まって眠ってしまうのですが、思いがけずに良い映画に当たると倍の喜びを感じられたものです。

その中で大当たりだった映画が、この《日の名残り》でした。大きなクライマックスがある訳でもなく、どちらかというと淡々と進んで行くストーリーなのですが、アンソニー・ホプキンスエマ・トンプソンの絶妙な、艶のある演技力にどんどん引き込まれ、終演の後は一時席を立てなくなるほどでした。

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英国的な様式美と日本的な慕情。
英国的な品格と日本的な節度。
英国的な情感と日本的な感情表現。

これらの混ざり合った、全編を支配する絶妙なイメージを感じるだけで、倍の入場料を払っても良いと思えるほど、僕的には大満足の映画だったのです。

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《執事》という職業は、厳密に言えば英国にしか存在しないそうで、大方は召使いか使用人だそう。戦前までの英国には、皆から羨望されるほどの執事が何人か存在したそうで、この映画ではその条件を、英国紳士たる貴族か、代々続く富豪の雇い主のもとで、大勢の使用人を束ね、ぬかりない指揮を執る能力はもちろんのこと、執事としての《品格》を保つことと言うのです。

アンソニー・ホプキンス演じる主人公のスティーブンスは、名門の貴族、ダーリントン卿に仕える執事。第一次世界大戦の終りから第二次世界大戦勃発、終焉に至るまでの期間、ダーリントン卿の屋敷《ダーリントンホール》は、英国の要人、フランス、ドイツ、アメリカの高官が出入りする、歴史の転換期の重要な裏舞台となります。

そのダーリントン卿に仕える執事として、スティーブンスは自身の感情を押し殺し、ダーリントン卿を信じ、ひたすら尽くすことで、執事としてのプライドと達成感を高めていきます。

そこに女中頭として共に働いていたのが、エマ・トンプソン演じるミス・ケントン《ダーリントンホール》黄金期、二人は微妙なバランスを保ちながらその仕事を全うします。

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スティーブンスの父も立派な執事で、年老いて一線を退いた晩年、スティーブンスの元、副執事として雇われますが、寄る年並には勝てず、ケアレスミスを重ね、《ダーリントンホール》での最も重要な会議の最中、脳卒中で亡くなります。

執事としての《品格》とは、「どのようなアクシデントがあろうとも狼狽えず冷静沈着に行動し、その仕事を全うする」と定義し、そのように生きて来たスティーブンスは、すぐ近くにいたにも関わらず、父親の死に目にも会わなかったのです。

それと平行して、映画では、エマ・トンプソン演じるミス・ケントンの、スティーブンスに対する愛憎入り交じった複雑な想いが、その演技からスクリーンいっぱいに溢れてきます。

スティーブンスも、ミス・ケントンに対してほのかな恋心を感じながらも、執事としての《品格》の妨げになるその感情を徹底して押し殺し、よりいっそう仕事に集中しようとします。

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殺風景なスティーブンスのプライベートルームに、頻繁に花を生けにくるシーンに象徴される、ミス・ケントンスティーブンスに対する想い。その意図する所を頑に感じようとしないスティーブンス

その中で、僕の心に深く残る名場面は。

ある日の仕事終りの夜、ミス・ケントンは何時もの様に、頼まれてもいない花を生けにスティーブンスのプライベートルームへ。そのときスティーブンスはリラックスした状態で小説を読んでいます。どのような類いの小説を読んでいるのか興味の湧いたミス・ケントンは、それを問います。その問いを頑に阻むスティーブンス。いたずら心の湧いたミス・ケントン(本当は、スティーブンスの心の鎧を壊したかった)は、無理矢理その小説の背表紙を見ようとし、抵抗するスティーブンスの手の指を一本ずつはずしてゆきます。触れ合う手と手、間直に近づいた二人の顔と顔。女性の眼で見つめるミス・ケントンに対し、困惑した様子で哀しそうに目線を外すスティーブンス。

もう、この時のアンソニー・ホプキンスエマ・トンプソンの演技は、間違いなく映画・プラトニックラヴストーリー最優秀賞(今作りました)断トツの一位!!愛おしくて、切なくて、哀しくて…、 そしてあまりにも美し過ぎて…、

愛とはこの一瞬なのだ!
物語なんかはいらないのだぁ!!
この一瞬こそが永遠なのだぁ〜〜〜っ!!! と、
僕は一人もだえて観ていたのであります。

スティーブンスの読んでいた小説は、女性好みの情緒的な《恋愛小説》で、自身が閉じ込め続けている慕情を慰める為のものだったのでしょう。スティーブンスミス・ケントンに、執事としての見識を深める為だとか客人のあらゆる話題に対応する為だとかの、何時ものような  つまらない言い訳を語り、ミス・ケントンは諦めて部屋を出て行くのです。

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結局ミス・ケントンは、元執事の男性に求婚され、その男性の故郷に旅立ちます。その決心に至るまで、スティーブンスに対して物言わぬアプローチを数々仕掛けて行くのですが、仕事に徹するスティーブンスは、そのことごとくを意識的に無意識的に流してしまうのです。

その後、主人である貴族、ダーリントン卿も、古くからの大英帝国の伝統的な紳士(騎士道)に自身をはめ込むが故に、大きく変動する第一次世界大戦の終りから、第二次世界大戦勃発に至るまでの世界情勢を読み間違え、その正義感が大きく裏目に出てしまいます。

第二次世界大戦後は、ナチスドイツの暴走に加担した売国奴として凋落してゆくのです。

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映画は、嫁いでいってしまったミス・ケントンが、20年後、スティーブンスに自身の近況を綴った手紙のナレーションをバックに、《ダーリン トンホール》に掲げられていた絵画が競売に掛けられ、アメリカの大富豪ルイスに、競り落とされるシーンから始まります。

引き続き執事として雇われたスティーブンスは、新たな主人ルイスに、「たまには外に出て違う世界の空気を吸い、新たな見識を深めてこい」と言われ、まとまった旅行休暇を与えられます。

あまり上手くいっていない結婚生活を送る、夫と別居中のケントンを、新たに女中頭として迎え入れたいスティーブンスは、その目的も携えて、ルイスから借り受けた、美しすぎるクラシックカーで旅に出かけます。

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常に曇り空のしっぽりした美しいイギリスの田園風景をバックにドライブするスティーブンスの運転するクラシックカーの卓越した映像美を挟みながら、執事として歩んで来た歴史の回願禄として映画は進んで行きます。

その旅を続けて行く中で、スティーブンスは執事としての人生を見つめ直し、頑に信じていた《品格》を追い求め続けた自身の生き方に、少しずつ疑問を持ち始めるのですが…。

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旅の終り近く、スティーブンスは、20年ぶりにケントンと再会します。 昔話に花を咲かせ、お互いの近況を語り合った後、もう一度女中頭として屋敷に戻って来てほしいと話すスティーブンスに、ケントンは、一人娘に子供が出来たことを伝え、もう一度、今の夫との生活をやり直す決意を伝え、その申し出を断るのです。

もしこの時、スティーブンスが守り続けて来た自身の殻を打ち破り、内に秘め続けていた恋慕を解き放ちながら、なり振り構わずケントンに懇願することが出来たなら…。

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日の名残り(マジックアワー)の黄昏時、二人は人々が行交う桟橋を見つめながら、ケントンが帰りに乗るバスの到着をバス停のベンチで待ちます。

人生の《日の名残り》
大英帝国の《日の名残り》
執事としての《日の名残り》
純愛の《 日の名残り》
男としての《日の名残り》

明るいうちには見えなく感じ得なかったそれらの全貌が、胸に押し寄せてきて、人々の行交う桟橋がうっすらと浮かび上がる《日の名残り》の美しい景色を見ながら、スティーブンスは、胸中で涙するのです。

ケントンとのバスでの別れのシーンの二人の表情は、人が人生の黄昏時に見せる普遍的な物悲しさ、曖昧さ、渇望感を見事に見せてくれます。

はたして、なおも続く自身の執事としての晩年の人生を今更修正する余力も残ってないことをスティーブンスは感じてしまったのでしょうか?

新しい主の待つ屋敷へ、何事も無く静かに戻って行くことでしょう。

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そして今、ふと思い出したのが、
前回の記事で紹介した、長田弘《こんな静かな夜》という詩の一節。

あなたが誰だったにせよ、あなたが
生きたのは、ぎこちない人生だった。
わたしたちと同じだ。どう笑えばいいか、
どう怒ればいいか、あなたはわからなかった。

胸を突く不確かさ、あいまいさのほかに、
いったい確実なものなど、あるのだろうか?
いつのときもあなたを苦しめていたのは、
何かが欠けているという意識だった。

わたしたちが社会とよんでいるものが、
もし、価値の存在しない深淵にすぎないなら、
みずから慎むくらいしか、わたしたちはできない。

わたしたちは、何をすべきか、でなく
何をなすべきでないか、考えるべきだ。

https://blog.akiyoshi-zoukei.com/katsu/post-1620

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執事に限らず、人の人生においての一番の障害は自分自身なのでしょう。経験すればするほど「何々しなければならない」という重い手枷足枷を 次々に付け加え、自分で自分を縛ってゆくもの。そうするうちに感情の発露がぎこちなくなり、生き方すらわからなくる。

完璧なものを追求するのではなく、曖昧なものを曖昧なまま(薄明薄暮)に感じながら生きて行く時、もしかしたら、人生の意味の全容が見えてくるのかもしれません。

映画《日の名残り》は、そのようなことを考えさせてくれる、珠玉の作品なのです。

私達は

※追記

この物語は、様々な裏読みが出来るようです。同性愛、ユダヤ問題、当時の世界の指導者のパロディなどをふんだんに盛り込んでおり、二重三重の構造になっているそう。今回の感想は、僕がこう観たいと思うストレートなものを書いています。

おしまい