シネマは確実に現実逃避なんだけれど、人はそのシネマによって厳しい現実を生き抜いていけるのだから、シネマほど有能な精神科医はこの世に存在しない。
久しぶりに映画館に行って、山田洋次監督《キネマの神様》を観た折(観た方はわかると思うのですが)、随分前の古い映画《カイロの紫のバラ》を思い出します。
この映画は35年程前に封切られた、僕の大好きなウッディ・アレンの心地よいラヴコメディーで、あのラストシーンをもう一度観たくなり、ネットの動画配信で観賞。久しぶりに観る主役の ミア・ファローは相変わらず(映画なので変わるわけがない)キュートでチャーミング。コロナ禍で引きこもりの僕なのだけれど、とても幸せな時間を過ごせたのです。

ウッディ・アレンの映画は、どれも脚本が素晴らしく、スクリーン全体に広がるノスタルジックで優しい色彩と、包み込んでくれるような愛情を感じさせてくれます。 更に僕の大好物、ビックバンドジャズのスタンダードの名曲がふんだんに使われ、もうそれだけで涙ものなのです。
フレッド・アステアの《Cheek To Cheek》で始まる、この奇想天外なファンタジック・ラヴコメディーは、ウッディ・アレンならではの斬新でギャグセンス溢れたストーリーで、当時、映画ファンの大喝采を浴びたのです。知らんけど。
ここからはネタバレ満載でおおくりするので、まだ観ていない方は是非、ご覧になられてからお読みくださいね。

時は世界大恐慌の1930年代。アメリカ、ニュージャージー州に住む主人公セシリア(ミア・ファロー)は、すべてを大恐慌を理由に働らかず、遊んでばかりいるDV夫・モンク(ダニー・アイエロ)と辛くて貧しく、先の見えない結婚生活を送っています。
生活はカフェでウエイトレスで働くセシリアの稼ぎだけで何とか凌いでおり、愛に飢え人生に疲れ果てているセシリアの唯一の救いが大好きな映画を観に行くこと。映画館の暗闇の中、スクリーンを見つめ《虚構》の世界に浸りきっている時間だけが苦しい現実を忘れさせてくれます。
今夢中になっている映画は《カイロの紫のバラ》。
昭和初期の日本映画もそうだったのですが、1930年から1940年にかけてのハリウッド映画はまさに美しき虚構の世界。 経済的に満ち足りた上流社会の登場人物たちがシャンパン片手に、恋を語り哲学的な机上の空論の言葉遊びを楽しむ、現実感の欠片もないファンタジーを描いていました。社会を揺るがすような社会派問題作など皆無で、夢のような恋物語の数々。その最たるものがスッカスカのMGMミュージカルでした。
当時の映画ファンは絶対にありえない世界と十分理解したうえで、絶対にありえない世界を存分に楽しむことの出来た人達だったのです。
MGMミュージカルに脚本の深みなど誰も求めてはいませんでした。ストーリーの流れなどお構いなし、お互いの感情が高まれば、豪華絢爛なセットととろけるような音楽をバックに、恋する男女が所かまわず歌います、踊ります! だからこそ、その世界に浸っている時だけは厳しい現実を忘れることが出来たのでしょう。

セシリアもどんなに現実が苦しくとも、映画を観ているときだけはすべてを忘れ《虚構》の世界に浸ることが出来たのです。強く決断する心の強さを持てず、自身の境遇や運命に流されるままの人生。それほど美しくもなく特出した能力も集中力もないセシリアは、ウエイトレスの仕事もろくにこなすことが出来ず、何度もミスを繰り返した挙句クビにされてしまいます。
絶望感に打ちひしがれ泣きながら映画館へ向かうセシリア。
そしてスクリーンには、5度目の観劇となる《カイロの紫のバラ》。
お気に入りの登場人物、冒険家のトム・バクスター(ジェフ・ダニエルズ)を食い入るように見つめるセシルアに向かって、その日なんとスクリーンの中のトム・バクスターが「また来てくれたね」と、話かけたのです。 セシリアに一目ぼれした劇中のトム・バクスターはその役のその設定のままスクリーンから飛び出しセシリアを口説き始めます。

《第四の壁》
《虚構》の物語と《実存》の観客の間に存在している、永遠に隔てている透明な幕。
ここから物語は、登場人物が《虚構・白黒》と《実存・カラー》の間の不可侵であるはずの《第四の壁》を自由に行き来するファンタジーが展開されます。それはまるで夢と現実を自由に行き来できるように、あの世とこの世が重なっているかのように。
劇中のトム・バクスターを一心に見つめるセシリアの恋心の妄想が《第四の壁》を破り、事態は大騒ぎに。劇中の他の登場人物は《虚構》から《実存》に逃げ出したトム・バクスターに向かって物語が進まないから戻って来いと怒り心頭。トムはトムで何十回、何百回、何千回と同じストーリーを生きなければならないことに飽き飽きし、
「僕は自分の意志で自由に生きるんだぁ!フリーダム!」
と叫び、《虚構》のトム・バクスターは、《実存》のセシリアを連れて《実存》の世界で自由を謳歌するのです。 もう訳が分からない設定、展開の中で登場人物が大真面目にやり合う数々の不条理ギャグは、ウッディ・アレンの真骨頂!
そんなやり取りを観ながら、僕は劇中から飛び出したトム・バクスターは、無自覚に生きる僕達人間が、《業》を背負いながら何度も人生を繰り返す輪廻から脱出した人間に思えてきて、
「スクリーンが《実存》でこの世界が《虚構》ではないのか?」と、
更に訳が分からなくなり大きく混乱してしまうのです。

物語は、監督やトム・バクスターを演じた役者ギル・シェパードがハリウッドから事の収拾に駆けつけるのですが、《実存》の役者ギル・シェパードもセシリアを好きになり、またまたありえない三角関係に発展。恋焦がれていた《実存》の役者ギル・シェパードにもメロメロのセシリア。今度は《実存》の世界で《実存》の役者ギル・シェパードとのデートを楽しむのです。

ここで僕の大好物のワンシーン。
デートの最中、街の楽器店のショーウインドウ。そこに飾られていた楽器はセシリアが幼少期、父親に教わり唯一弾くことの出来たウクレレ。
そこでミュージカルのお決まりのシーン。店内でウクレレを弾くセシリア。それに合わせてギルが《AlabamyBound》をご機嫌に歌い上げます。更には、それを嬉しそうに眺めていた店の主のおばあさんもピアノで参戦。《I Love My Baby, My Baby Loves Me》を3人ノリノリでジャムセッション!
タモリが見たら卒倒しそうなありえないほど不自然なシーンなのですが、僕は当時の映画のこんな場面が大好きで、喜びに悶え苦しむのです。 自分には何の取り柄もないと思っていたセシリアなのですが、ウクレレを弾いている瞬間、セシリアのオーラに美しい花々が咲き乱れたのです。(と、僕は思いたい!) そのウクレレ演奏に何の生産性がなくとも、世間の評価が皆無であっても、それはセシリアの人生において自身の心に花開かせる最高のアイテムだったのです(と、僕は思いたい!)。
人は自分の心の中に花を咲かせることの出来るアイテムの一つ二つは必ず持っているもの。そんなアイテムも比較競争の世の中で、大人になるにつれ仕事にならないもの、他人に評価されないものとして切り捨て忘れ去ってしまうのですが、それこそが一番大切な物だったりするのです(と、僕は思いたい!)。

《実存》の役者ギル・シェパードは、セルシアの大切な物を思い出させてくれ、尚且つこれからの人生を一緒に歩んでいくことを約束してくれます。 《虚構》の冒険家トム・バクスターに別れを告げ、DV夫モンクの元も去り、セルシアは荷物をまとめ、ギル・シェパードと待ち合わせのいつもの劇場の入口へ。
しかしそこにはギル・シェパードの姿はありませんでした。事態が落ち着き正気を取り戻したギルは、監督や仲間たちと共にハリウッドへ帰ってしまっていたのです。 小さなボストンバックとウクレレを大切に胸に抱きしめたセルシアは呆然と立ちすくみます。

皆が去った劇場で新たに封切られていた映画は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの夢のようなラブコメディ《トップ・ハット》。
仕方なく劇場へ入り、胸のウクレレを眺めながら受け入れられない現実に絶望し席に着くセルシア。自身を光輝かせる希望の象徴であったウクレレは、いまや現実を突きつける絶望のアイテムとなってしまったのです。
ここからが映画史上最も切なく、最も美しいラストシーンが映し出されます。
最初は心ここにあらずでスクリーンを呆然と眺めていたセルシア。しかしスクリーンの中ではフレッド・アステアが歌う《Cheek To Cheek》の歌声が心地よくながれ、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースは、夢のような豪華絢爛なセットの中で、優雅に歌います、踊ります。
そんな映像をただただ眺めているセルシアの顔の表情に少しずつ少しずつ生気が戻ってくるのです。
何時も映画に救われてきたセルシアは、人生最大のどん底、絶望の淵の《実存》の中でも、映画という《虚構》に徐々に徐々に救われてゆくのです。
絶望から希望の表情へと徐々に変化してゆく、なんとも美しい女優 ミア・ファローの微表情。 ウッディ・アレンは、この救いのシーンを ミア・ファローの微表情を 撮りたいがためにこの映画を創ったのです。知らんけど。

《実存》の中で希望の象徴であったウクレレ。それが一瞬にして絶望の象徴になってしまったセルシアの厳しい現実。 しかし今《虚構》の映画によって再び《実存》の中の絶望が希望のアイテムに変化しようとしています。 何の取り柄もない凡庸なセルシアが花開く煌めきを作ってくれたウクレレ。忘れかけていたけれど、幼少期父親がセルシアに与えてくれた希望のギフト。 《虚構》の現実逃避である映画によって 与えられた 《実存》の ウクレレ。変わらず厳しい現実が待ち構えているであろうセルシアの人生なのですが、希望のギフトとしてのウクレレを胸に抱え、今からの人生を歩んでいけたなら、きっと…。

あなたの世界も僕の世界も、それぞれの世界は物語で出来ています《(時間は存在しない)のカルロ・ロヴェッリのオッサンが言っとった》。 その物語を希望で紡ぐのか絶望で紡ぐのかは、日々の何でもない物語にどのような想いを添付するのかで決められてゆくのでしょう。
あなたにとってのウクレレとは何ですか? そのアイテムは今、希望ですか?絶望ですか? 出来るなら、自身の感受性を信じて希望を胸に抱えながら生きて行きたいもの。
人生は煌めく時と共に…。

60カラス 様
ご無沙汰しております。久々にブログを覗きにきたら、なんと大好きな「カイロの紫のバラ」に記事が!
ウデッィ・アレンの映画の中で一番好きかも。ストーリーも音楽も映像も全てが最高です。初めて見たのはうんと若い頃。その時はラストシーンがとても悲しく感じられたのです。あんなにうっとりと映画の世界に入っていても、結局はどうしようもないダンナのいる家に帰るしかないなんて(涙)と。
でも自分も年齢が上がっていくにつれ、そして何度か見るうちにこれは現実を受け入れたラストシーンなんだと思うようになりました。その表れが書いておられる「微表情」なのかと思います。一瞬でも夢を観させてくれ、そしてまた生きていこうと彼女に勇気を与えたのが映画だったのですね。
人によっては音楽だったりお芝居だったりスポーツだったり旅行だったりと様々ですが、生きていくための心の糧を何か持っています。そして気が付くとそれは不要不急のものばかりなんです。コロナ禍でよくわかったのは不要不急が経済を回し、皆の心のよりどころだったという事。
芸術やエンタメは人から人に降り注ぐ太陽の光みたいなものですね。みんなを「微表情」にさせます。きっとセルシアもラストシーンの後は現実の世界で生き抜いていったことでしょう。時々は映画の力を借りながら。
この映画が好き過ぎて長文になってしまいました。他人様のブログのコメントに書き散らして失礼しました。現実世界ではこの映画を見たと人が周りにいないのでつい語ってしまいました。現代の私たちには現実世界以外にこのネット世界というものも有りますね(笑)たくさんの行き来できる世界がある方が豊かです。
コロナ後がどんな世界になるかわかりませんが、イマジネーションがたくさん行き来できる世界でありますように!