《ペーパームーン》あなたがそばにいてくれたなら、たとえ紙で作ったお月様でも、本物のお月様より何倍も素敵に感じられるの。

ペーパームーン

およそ半世紀前に上映された映画《ペーパームーン》 ライアン・オニールとテイタム・オニールの本物の親子が演じる、アメリカン・ロードムービー。今観ても、天才子役テイタム・オニールの可愛さと憎たらしさがスクリーンいっぱいに広がります。

月あかりシリーズ(今作りました)第三弾、映画《ペーパームーン》 前回の記事《題名に月のついた名曲10選》でご紹介させてもらった曲、イッツオンリーアペーパームーンを聴いていると、どうしてももう一度映画《ペーパームーン》を観たくなり、かみさんが覚えもないのにいつの間にか(アマゾンプライム会員)にさせられていたと主張する(Amazonプライム)で、久しぶりに観ましたよ《ペーパームーン》

またしても、テイタム・オニールの可愛さと憎たらしさにやられ、その感動が消えぬうちに早速取り上げて みました。

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アメリカン・ニューシネマのカテゴリーに入れられている《ペーパームーン》。世の不条理や圧倒的な力を持つ体制側にひねりつぶされ、バッドエンドで幕を閉じるものが多いアメリカン・ニューシネマにあって、大不況の世の中で、個々のしぶとく生き抜く力強さやしたたかさを映し出し、嘘と誠を織り交ぜながら人間の魂の繋がりを魅せてくれるこの映画は、僕に生きる力と勇気を与えてくれたのです。(以下ネタバレありです。)

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時は世界的大恐慌期の1935年のアメリカ西部。詐欺師のモーゼ(ライアン・オニール)の女友達が突然の交通事故死。その葬儀で、残された一人娘9歳のアディ(テイタム・オニール)と出会います。遊び人だった母親の男友達の一人に過ぎなかったモーゼだったのですが、成りゆき上アディをたった一人の身寄りである、ミズーリ州に住む叔母の所まで送り届けなければならなくなってしまいます。

ここから映画はモノクロの美しいアメリカ西部の景色をバックに、二人の珍道中が始まるのです。

この道中を通してそこはかとなく流れているのが、人間の持つ業を全肯定する《落語》の精神。詐欺師と、こまっしゃくれた小娘の行動や会話から滲み出る人間のセコさ、ズルさ、汚さ。そして優しさ。

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アディの母の交通事故の加害者の身内から、200ドルを騙しとったモーゼ。そのうちの20ドルとミズリー行きの汽車の切符をアディに持たせ、お役御免を計るのですが、その一部始終を見ていたアディ「私の200ドルをかえせ!」と大声でモーゼに迫ります。

既に新車を購入し、手元に現金を持たないモーゼは、邪魔で仕方がないアディと、ミズリー州までの二人旅を余儀なくされるのです。このときアディは、自分のあごのラインがモーゼにそっくりだと思い込み、本能的にモーゼを父親と信じるのです。

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モーゼは旅の途中の街町で聖書を売りつける詐欺で小銭を稼ぎます。新聞の訃報記事でその町の未亡人を調べ、旦那が生前注文した聖書だと嘘を言い、売りつけるのです。それを見るうちにアディはその詐欺に加担し、モーゼのピンチを救ったり、臨機応変に聖書の金額を変える等、モーゼを上回る天才的な詐欺の能力を開花させるのです。

そのすべてのアディの行為は、父親と思い込んでいるモーゼと一緒にいたい、離れたくないの一心から…。

その想いは、旅途中、娼婦まがいのダンサーに入れ込むモーゼを策略の末、その女性から引き離したり、酒の密輸の詐欺で大金を手に入れる算段を考えついたり(これは失敗に終り、モーゼは半殺しの目に遭う)と、モーゼの役に立てる所を必死にアピールするのです。この辺りのテイタム・オニールの演技は素晴らしく、可愛さ、憎たらしさ、したたかさ、せつなさ、さみしさのすべての感情が、痛いほどに伝わってくるのです。やはり役者は眼で語るのです。テイタム・オニールの眼からほとばしる情感は凄まじいほどの説得力を放ちます。役から外れれば実際は本当の親子なので、それも演技に生きたのでしょう。

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常に、減らず口と挑発的な物言いでモーゼの感情を揺さぶるアディ。対して、いつも怒りに震え、辛辣にアディをののしるモーゼ

その言葉の意味とは正反対の心の叫び声が行き交い、詐欺師の二人なのでけれど、嘘偽りのない魂のコミュニケー ションを僕たちは感じるのです。

本能的に父親と信じたい娘。本能的に娘と信じたくない父親。

酒の密売の詐欺の失敗で身ぐるみはがされ無一文となり、車もポンコツのトラックとなってしまった二人はミズーリ州の住む叔母の家に到着し、いよいよ別れの時がきます。

最後にアディモーゼに訊ねます。

「本当にパパじゃない?」

「違う」

名残惜しそうにアディは叔母の家へ。何とも言えない表情で見送るモーゼ。 叔母に歓迎され部屋に入ると、そこには憧れのピアノがあり、なに不自由のない生活が保障されているよう。しかしピアノの鍵盤を一つつま弾き、寂しそうにうつむくアディ

その頃モーゼは、オンボロトラックを道路脇に止め煙草を吸いながら休憩していると、助手席の脇にある封筒を見つけます。中には途中で寄った遊園地の写真館のハリボテのペーパームーンに一人ポツンと座る、しかめっ面のアディの写真。

添え書きに「モーゼへ。アディより」 とあります。

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複雑な想いを胸にモーゼは車のセルを回しエンジンをかけ、ふとバックミラーに目をやると、道の遥か遠くから、いっぱいの荷物を持って必死に走り寄ってくるアディの姿が。

この再会シーンを撮りたい為に作った映画じゃないのかと思ってしまうほどの感動的なシーン。

人は何をもって幸せを感じるのか? アディにとっての幸せとは何なのか?

経済的に保証され、それなりの愛情を与えられてもなお足りない何か? 心の深い所で触れ合える魂の相手(パートナー)、その相手がアディにとってはモーゼであり、好むと好まざるに関わらず、モーゼにとってはアディだったのでしょう。

再び対峙する二人。

モーゼが叫びます。

「もうまっぴらだと言っただろう!」

アディが返します。

「まだ200ドルの貸しよ!」

帽子を地面に投げつけ怒るモーゼ(この時のローアングルからの映像は美し過ぎます)。 ふとトラックに目をやると、サイドブレーキをかけ忘れたのか、車は坂を勝手に下り始めており、モーゼアディは必死で車を追いかけ、何とか飛び乗るのです。その先には長い長い道がずっと続いています。

ここで映画は終わります。

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再会した二人の心温まる言葉の掛け合いは何一つなく、最後まで減らず口の応酬で終始します。だからこそ最高のラストシーンとなったのでしょう。

坂道のトラックは、二人のあがなえない運命や宿命の象徴として勝手に走り出します。それに否応なく飛び乗る二人。一文無しの詐欺師コンビが辿るこの先の人生。おそらくイバラの道が待ち構えているはず。

それでも二人にとって幸せを確かめることのできる唯一の相手がお互いだったのでしょう。 結局、物語では最後まで本当の親子かどうかは明かされなかったのだけれど、もう二人にとってはそんな事はどうでもよく、仮に偽物の親子であったとしても、魂の交換さえ出来れば、それは本物となるのでしょう。

そう、たとえただの紙のお月様だったとしても、真に思えば本物となるのです。 

人は見たように感じたように物事を捉え生きていきます。 

嘘や誠の限りを越えて、その想いの力で人生は巡っていくのです。

《It’s Only A Paper Moon》

本当のことだとは思えないわ
あなたから離れているときは
抱きしめてもらってないと
まるで世界は臨時駐車場みたい

Mmm, mm, mm, mm
つかの間のシャボン玉
Mmm, mm, mm, mm
あなたは笑顔、シャボン玉の中の虹

そうよ、ただの紙のお月様
厚紙の海を帆走してゆく
でも、見せかけのものにはならないわ
あなたが私を信じてくれているなら

そうよ、ただのキャンバスの空
モスリンの木が垂れ掛かっている
でも、見せかけのものにはならないわ
あなたが私を信じてくれているなら

あなたの愛がなければ
こんなのは、から騒ぎのパレードだわ
あなたの愛がなければ こんなのは、
ペニーアーケードで演奏されるメロディよ

これは、バーナムとベイリーの世界
偽物だってできるのよ
でも、見せかけのものにはならないわ
あなたが私を信じてくれているなら

おしまい