あぁ麗しの昭和歌謡曲⑦ 尾崎紀世彦《さよならをもう一度》圧倒的なスケール感とドラマ性。いつまでも浸っていたい悲哀感。

尾崎紀世彦1

圧倒的な歌唱力と表現力を併せ持つ、稀代のエンターティナー尾崎紀世彦。レコード大賞受賞曲《また逢う日まで》に続くシングルが《さよならをもう一度》でした。小さな小さな失恋の別れ歌を宇宙的なスケールに転写し、おおらかに歌い上げてくれた尾崎紀世彦。昭和の時代、取るに足らない僕の失恋のトラウマをドラマチックに解き放ってくれたのです。

日本の歌謡界では収まりきれなかった感のある尾崎紀世彦。 もともとハワイアンバンドの出身で、GS全盛期、《ザ・ワンダース》のメンバーとして活動していたそうですが、GSブームに翳りが見えた頃、解散。1970年、大阪万博が大々的に開催された年、ソロデビュー。翌年、名曲《また逢う 日まで》がメガヒットし、その年の日本レコード大賞・日本歌謡大賞をダブル受賞。さらに紅白歌合戦にも初出場を果たし、一躍日本の歌謡シーンに躍り出ます。

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その歌唱の実力は言うに及ばず、低音から高音の広域にわたって太く美しく響き渡る音声と圧倒的な声量は日本人離れしており、祖父がイギリス人のクォーターであったことに一つの理由があったのでしょうか?

全盛期が過ぎると、テレビの露出が極端に減ってしまったのですが、僕が久しぶりに尾崎紀世彦の歌声を耳にしたのは、1987年にスマッシュヒットした《サマー・ラブ》という曲を歌っている姿でした。 久々に聴く尾崎紀世彦は、すっかり力みが抜け、「この人、こんなに素敵な歌い手さんだった?」と、改めてその歌声とスケール感に魅了されたのです。

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僕はもともと《さよならをもう一度》という曲が大好きだったのですが、全盛期が過ぎて力みの抜けた頃の尾崎紀世彦が歌う《さよならをもう一度》 を聴いたとき、思わず涙が出るほど感動したのです。

この曲は、作詞が阿久悠で、 作曲・編曲を川口真が手がけたもので、非常にスケール感のある曲なのですが、尾崎紀世彦が歌うことによって、より大きな広がりと物語性が漂うのです。間奏で披露する尾崎紀世彦の指笛がまた素晴らしく、その時に毎回披露する茶目っ気たっぷりのパフォーマンスも込みで、僕たちを楽しませてくれました。

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作曲・編曲を手がけた川口真は、僕が大好きな作曲家で、代表曲を上げますと、

金井克子  「他人の関係」

中尾ミエ  「片想い」

夏木マリ  「絹の靴下」

弘田三枝子 「人形の家」

布施明   「積木の部屋」

由紀さおり 「手紙」

どの曲もスケールが大きく、ダイナミックなアレンジと素晴らしいコーラスを楽しませてくれたのです。特に中尾ミエ「片想い」は大好きでした。

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話を尾崎紀世彦に戻します。

請われますと、自身のヒット曲はもとよりジャズ、ロック、ポップス、カントリー、ハワイアン、歌謡曲と何でも歌い、さらに尾崎紀世彦独自の表現として僕たちに届てくれました。 しかし、2012年5月30日、69歳の若さで亡くなってしまいます。これほどにジャンルを問わず、おおらかにゆったりと歌い上げることのできる歌い手さんはもう現れないのではないでしょうか。

昭和歌謡曲界のトム・ジョーンズ、いや、日本人の僕たちにはトム・ジョー ンズをも凌ぐの魅力を感じさせてくれた尾崎紀世彦の歌声は、今だに僕たちを《壮大なファンタジー》の世界へ誘ってくれるのです。

「究極の恋愛は片想い」

これは僕の持論で、賛同してくれる方は少ないのですが、とにかく恋愛を美しく保つのは一瞬一瞬の煌めきを汚さないことだと思うのです。お互いが想い想われで恋愛が成就した時点で、その後の継続の欲望が現れ、美しかった互いの妄想が崩れだします。

もちろん高村光太郎《智恵子抄》の世界のように、例外はあるのでしょうが、僕のような凡庸な人間にはありえないお話。

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高校時代。

部活が早く終わった帰り道。何時ものように校内の通路を真っすぐに進み、突き当たりの校舎の角を右に曲がれば裏門へ抜けます。校舎の角の一階の教室は美術部の部屋で、いつもはすでにカーテンが閉められ人の気配はないのですが、その日はやわらかな初夏の陽がさす窓越しに、キャンバスに向かって黙々と筆を動かす女の子の後姿が見えたのです。

近づくにつれ、キャンバスに描き込まれつつある色鮮やかな花々が見えてくるのですが、それよりも何よりも、柔らかな陽を浴びて光り輝いてる、白いブラウスを着た女の子の背中が眩しくて眩しくて…。

白いブラウスが太陽の光を浴びた時、その白の中にはすべての色が含まれている事をそのとき始めて僕は知ります。

虹色に光輝くその白のブラウスが、キャンバスに描かれた花々に溶け込み一体となった瞬間、僕はなんともいえない至福感を覚えます。  と、こちらを振り向く女の子。

眼があった瞬間、始めて体験する衝撃!

そう、いわゆる典型的な一目惚れの初体験。 絵を描いている彼女を見て、まさに絵に描いたような一目惚れ。 その時、僕の脳内には、なぜか尾崎紀世彦《さよならをもう一度》の「♪ララララー、ララララーララ」のイントロが大音量で流れ出し、まだ何も始まってもいないうちから「別れの歌」が鳴りだします。

このように、彼女との出逢いは、その美しさとは裏腹に、なんとも縁起の悪い幕開けとなっ てしまったのです。

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尾崎紀世彦《さよならをもう一度》の「♪ララララー、ララララーララ」のイントロが暗示したように、僕の一目惚れは、すぐさま成就する事なく終わりを告げられます。

なぜなら、その子の中学校の同級生の男子生徒が僕と同じクラスで、二人は中学時代から恋人同士だったのです。そこに割り込むほどの勇気も自信も持ち合わせていない僕は、片想いのまま高校の三年間を過ごすこととなるのです。

当時の僕は、美術になんの興味もなく絵の善し悪しもまったくわからなかったのですが、キャンバスに向かう彼女と描かれた花の絵が溶け合う景色がたまらなく好きで、その姿を見る事のできた日は、それだけで幸せでした。

そんなある日一度だけ勇気を振り絞って彼女に話しかけた事があったのです。開け放たれた窓越しに「奇麗な花の絵やねぇ」と声をかけるとビックリしたように振り向き、少しはにかむような表情で小さな声で「ありがとう」と答える彼女。

言葉を交わしたのは後にも先にもこれっきり。しかし僕にはかけがえのない煌めく一瞬でした。

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片想いの恋は、この美しい一瞬を生涯汚す事なく心の中に保ち続ける事ができます。

絵を描く彼女の姿に限らず、人が物事の結果や評価、勝ち負けや優劣など微塵も考えられないほど、魂の限りを尽くして何かに取り組んでいる姿は、 何らかの《美》の輝きを放ちます。その行為即目的の営みには、対立概念のない《美》の波動だけが漂うのです。

きっと彼女も、花の絵を描いている瞬間は、個としての《自分》が消滅しており、その佇まいが僕を幸せにしてくれたのでしょう。

詩の内容は別として、いきなりサビのスキャットから始まる《さよならをもう一度》の旋律は、彼女の放つ《美》の波動とピッタリとシンクロしたのです。その時、僕の自我も一気に霧散し、宇宙的無意識の領域に誘われたのでしょう

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成就しない恋愛は、その後上書きされる事なく美しい記憶のまま(もしくはさらに美化され)保存されるからこそ、究極なのです。

卒業して何年か後、一度だけ街で彼女を見かけたことがありました。すっかりお嬢さんとなり更に美しくなっていた彼女だったのですが、それは美術室の彼女が当時放っていた《美》の波動とは、まったく別の種類の《美》だったのです。

その時、再び僕の脳内に《さよならをもう一度》メロディーが流れ出し、美術室の彼女とはもう二度と逢う事ができないのだと悟るのです。

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尾崎紀世彦《さよならをもう一度》のイントロを聴いた瞬間、今でも白いブラウスを着た美術室の彼女の輝きを思い起こさせてくれます。

《さよならをもう一度》の持つ《美》の波動は今でも僕に絶対的な多幸感を与えてくれ、美術室の情景は、心の奥底に眠る僕の宝物となっているのです。

おしまい