日本ミュージカル映画の最高傑作! 映画《嫌われ松子の一生》万歳!

嫌われ松子の一生

厳密な意味ではミュージカル映画の範疇に入らないのかもしれませんが、音楽で物語の大半を表現しているという意味では、この映画をミュージカルと言ってもよいのではないでしょうか? 陳腐でなさけなくて、どうしょうもない人生を コメディータッチで描いてみせることで、人生において、幸、 不幸を計ることの無意味さを映画《嫌われ松子の一生》は教えてくれます。

人は、生まれてから死にゆくまでの間、ただ一点の為にあらゆる手段を講じ、凄まじいエネルギーを消費しながら、生き続ける生き物です。

では、その一点とは何か?

自分が今、確実に生きており、その存在が許されている(愛されている)ことの絶対的な実感、その確認のため。

自分では、合理的、理性的に、整合性を持って行動しているつもりでも、その実、悲しくて滑稽な程に他者に認められたい(愛されたい)というだけの《動機》に揺り動かされ、その物差しで人生の大きな岐路の選択をしているものです。

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人(世界)を愛することで自身が愛されるという、実に単純な宇宙の理(ことわり)を 言葉や理屈では理解しつつも、存在のすべてを賭けて理解し得ない限り、人はあらゆる愚行を繰り返すものなのでしょう。

しかしそれが人間なのです。その愚行を否定、抑圧(世にあるほとんどの宗教)した上、人間の持つ欲望に無理矢理に蓋をし、その上に作られた奇麗事の現実社会を生きている僕たちにとって、人間の業を認識し、理解し、それを浄化出来る術はあるのでしょうか?

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《嫌われ松子の一生》は、Wikipediaに2006年5月の封切りとありますので、今から10年以上も前の古い映画なのですが、僕にとって非常に印象深い映画だったので、取り上げてみました。

原作は、山田宗樹の小説で、脚本・監督を中島哲也、主演・中谷美紀で、主人公・川尻松子の、壮絶な一生を描いた作品です。

松子の生まれ故郷が筑後川沿いの福岡県大川市で、福岡市天神の岩田屋と思われるデパートの屋上遊園地等も登場し、福岡県民の僕的にはとても親近感が湧く映画でした。

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物語は、いきなり主人公、川尻松子の撲殺死体が荒川河川敷で発見された所から始まります。

東京で大学に通ってはいるものの、自堕落な生活を送っている川尻笙は、上京して来た父・紀夫に、殺害された松子が自分の伯母(ほとんど記憶のない)だと明かされます。

早く帰郷しなければならない父に代わって 松子の住んでいたアパートの後始末をまかされたは、半同棲状態の恋人・渡辺明日香と共に、殺された松子にかかわっていくうちに、その一生に興味を持ち始めます。

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映画は、川尻松子の凄まじい一生を 様々なジャンルの音楽と踊りと、強烈な彩色の花々に彩られエグイほどに色彩加工された映像によって、怒濤のように展開していきます。

小説では、膨大なページを費やす重たいエピソードを 中島監督は、数分ほどの軽快な音楽をバックに、松子の記憶がフラッシュバックされた様な、脳内再生映像が、小気味よくスクリーンを駆け巡るテクニックで観客を楽しませます。

この重たい悲惨な物語を、エンターテーメントとして昇華してみせる演出手腕は、掛け値無しに素晴らしく、物語をコンパクトにまとめることに長けた、CMディレクター出身監督の面目躍如と言ったところでしょう。

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松子には、大病を患った妹の久美がおり、姉の松子を大変慕っていました。しかし幼年期の松子は、父からの愛情を独占している様に見える久美を、 妬み、自身に愛情を向けさせるため、久美の病気を憂い塞ぎがちな父の興味を必死で引こうとします。

これが、「私はここにいる、愛して!」の常人より 強烈な欲求を目覚めさせる《動機》となってしまうのです。

兄弟や姉妹を持つ方ならお分かりでしょうが、特に幼年期は、なんとか両親の興味(愛情)を引こうと互いに競い合うもの。

松子の場合、妹の〈大病〉 という、太刀打ち出来ない要素に対し、起死回生のとんでもない飛び道具を使います。

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ある日、父の用事で二人でお出かけした帰りに、デパートの屋上遊園地(当時はどのデパートも屋上に遊園地があったのです)に、連れて行って貰います。

屋上ステージで繰り広げられるお笑いショーでの芸人の変顔にクスリとした父に向かって、それ以上のテンションで変顔をしてみせた松子に、 父はおおいに笑ってくれます。

愛情を得るための、唯一の成功体験である〈変顔〉という飛び道具は、その後の松子の人生に置いて、起死回生のアイテムとして機能するはずが…。

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人生の重要な局面に置いて機能するはずの〈変顔〉というアイテムは、その後の松子の人生において、悲しいほどにことごとく裏目に出てしまい、その都度、坂道を転がるが如く堕落していくのです。

その堕落の始まりの事件は、何ともくだらないもので、そのボタンの掛け違いは、松子の人生の終焉まで、かけ直すことの出来ないほど深いものでした。

その、堕落の始まりの事件とは…。

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役所務めの父・恒造に認めてもらうため(僕の想像です)、中学教師になった松子は、修学旅行先の旅館で、不幸な生い立ちの教え子、龍洋一による窃盗事件に巻き込まれます。

洋一が窃盗を認めず嘘の証言をしたことから話がこじれ、教師・松子は、人生初の窮地に立たされるのです。 松子は窮地に立たされると、〈変顔〉をすることに象徴されるように、その場凌ぎの嘘や、ありえない行動を重ねてしまい、さらに取り返しの付かない事件を起こしてしまいます。

この事件を皮切りに、その〈変顔〉のために、その後の人生においても、幾度となく「人生が終わった!」と叫ぶほどの経験を重ねていくのです。

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人生に降りかかる様々な出来事(良いも悪いも)は、いままでに(もし前世があるとすればそれも含む)に自身が発した想念や行為が、因果応報の末、不規則な時間差を経て起こったもので、100%必然性をもったものだと思われます。

そうは言っても、人はその時々で右往左往し、良いことは永遠と続く様に願うし、良くないことは最小限の痛手でなんとかやり過ごそうとするもの。

本当は「人間万事 塞翁が馬」と言われる様に、人生の波風に翻弄されることなく、中庸のスタンスで漂うことがベストな生き方なのでしょう。

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しかし、その境地など遥か雲の上、底辺をウロチョロしてカサカサと這いつくばる様に生きている僕の様な人間にとっては、人間の業や欲望と、真っ正面から対峙し、泥にまみれながらも力の限り生き抜く松子のような人生は、もしかしたら泥沼に咲く一輪の蓮の花のごとく、なんらかの覚醒が見られるのではと、 思ってしまうものです。(実際にはその選択が出来るほどの覚悟もないヘタレなのですが…)

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ここからは、結末のネタバレありです。

故郷の大川を追われ、ソープ嬢と成り果てた松子が、堕落のキッカケとなった、教師時代の教え子、龍洋一と再会。こちらもヤクザと成り果てた龍洋一に、万感の思いを胸に、当時の証言の真意を問います。

「お金を盗んだのは自分です。あんなことになって申し訳ない。しかし、先生が大好きでした。本当に大好きでした」と、松子の興味を引くためにやった虚言であったことを涙ながらに白状します。そう、洋一松子と同類の人間だったのです。

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自分の人生を台無しにした張本人である龍洋一。しかし、人生でもっとも自分を愛してくれる最後の相手でもある、龍洋一

驚くことに、松子大きな憎しみよりも不確かな愛を選択するのです。

その後、ヤクザの組とのトラブルで刑務所に入所した洋一を出所するまで、 けなげに待ち続ける松子ですが、結果的に洋一の拒絶(愛していたゆえの)により別れてしまうのです。

物語の最後、キリスト教の聖書を心の寄る辺とすることとなる洋一の胸の内には、教師・松子の愛と許しという《イエス意識》の光が、確実に灯されていたのでしょう。

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晩年松子は、アパートに引きこもり、アイドル《光GENJI》内海光司に文字通り光を求めますが、自身の一生を綴った便箋何百枚にも渡るファンレターを送りつけるという奇行に出たうえ、その返信のないことに怒り狂うという、精神の変調を見せはじめます。

しかし、ギリギリ最後のところで救ってくれたのは、故郷で亡くなったはずの、妹、久美でした。夢(幻覚?)に出てきた久美の髪をカットする(ソープ嬢を引退した後、腕利きの美容師として働いていた)ことで、もう一度社会復帰する自信を得るのです。

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引きこもりの生活の中、故郷の福岡県筑後川に似た荒川の河川敷のベンチで、様々な想いを胸に夜空を眺めていた松子。そのベンチからの帰路、飲酒をして騒ぐ中学生に遭遇します。

正気を取り戻し、堕落する前の教師時代の正義感から毅然とした態度で子供達に注意をする松子

そして衝動的に金属バットで松子に襲いかかる中学生達…。

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人生の因果応報を、最後の最後まで、真っ正面から生身で引き受けて散った松子の魂は、白い蝶となって荒川の河を下って、故郷の筑後川に帰ります。

今まで人生の大事な局面で何度も見た極彩色の花々とは異なり、その時河川敷に咲いていたのは白と黄色の可憐な花々でした。

実家の二階へ続く長い長い天国への階段を上ると、何時ものように、パジャマ姿の妹、久美が笑顔で迎えてくれます。

「お姉ちゃん、おかえり」

「ただいま」

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そう、壮絶な人生の旅路の果て、たどり着いたのは、若い頃、疎ましく邪魔でさえあった妹、久美だったのです。

松子の帰る場所であり、魂の故郷は、もう一人の松子久美でした。

神である父、恒造の愛情は、何もしなくても、松子が松子でいるだけで、姉妹に等しく注がれていたのです。

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人生は不公平です。誰もが生まれながらにして、育った環境、才能の優劣、ビジュアルの美醜、その一切を背負い、劣等感や優越感を持ちながら、必死に誰かに愛されようとします。

そのために、凄まじいエネルギーを使って、社会的な成功、目的の達成、夢の成就を追い求めるもの。

しかし、その人生の結果が、惨めなものでも、世間から羨望されるものであっても、そんなものには何の価値もなく、その瞬時瞬時に真摯に正面から生き抜く、魂の有り様こそがすべてなのだと、僕はこの映画から学んだのです。

最後に、中島監督から、辛辣な罵声を浴び続けながらも、最後まで演じきった中谷美紀の凄まじい女優魂に、深く敬意を表します。

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松子の生涯を通して、常に流れる歌があります。 この映画のすべてを要約したような短いその歌詞とメロディーは、汚れた僕の胸の奥底にも届く、素晴らしいもの。

《まげてのばして 》是非、聞いてみて下さい。

《まげてのばして 》

作詞&作曲:Nancy G.Claster 日本語訳詞:麻生哲朗

まげて のばして お星さまをつかもう

まげて 背のびして お空にとどこう

小さく まるめて 風とお話ししよう

大きく ひろげて お日さまをあびよう

みんな さよなら またあしたあおう

まげて のばして おなかがすいたら帰ろう

歌を うたって おうちに帰ろう

おしまい