今でも、口ずさむと涙が出てきそうになるほどに美しく、心にしみるメロディー。歌詞もメロディーもこれほどまでにシンプルで装飾を施さない楽曲は、それぞれの聴き手に様々な情緒を思い起こさせます。この曲にまつわる、ショートショート劇場・遠い昔の初恋物語。
《あなたの心に》は、中山千夏のデビュー曲にして最初で最後のヒット曲。また、作曲家・都倉俊一にとっても、記念すべきデビュー曲でもあったのです。作詞は中山千夏自身の手によるもので、当時は歌謡界にさわやかな風を吹かせました。残念ながらその後のヒット曲は生まれず、作曲家・都倉俊一は、ヒットメーカーとして大成するのですが、才女・中山千夏は、その後《じゃりン子チエ》となった後、なんか変な道に行っちゃいました(残念!)。
中山千夏の《あなたの心に》がヒットした1969年は、僕が小学校6年生の時。大好きなこの曲がテレビやラジオから流れるたびに、一緒に歌うのですが、何時も涙があふれてくるのです。好きな歌謡曲や唱歌を歌うと決まって涙が溢れてくる変な体質で、何時もそれを悟られないように取り繕うのが大変でした。
母親が当時としては珍しく大学出で教育熱心だったもので、出来の悪い僕でも小学校時は、そこそこの成績でした。学期ごとに選ばれる、学級長は投票制で、当時の皆の判断基準は、成績の善し悪ししか無く、人望なんかない僕でも何故か毎年、2学期の級長に選ばれてしまいます。
4年生の2学期、何時もの様に僕は級長に選ばれ、女の子の級長には美代子ちゃん。何時も美代子ちゃんが相方になる事が多く、その後6年生まで3年間このコンビが続くのですが、美代子ちゃんが隣にいるとなぜか落ち着かなくなる僕は、いつも美代子ちゃんに酷い事を言ったり、意地悪ばかりしていました。
自分勝手で我が侭な僕と違い、ショートカットに花のパッチン留めのよく似合う美代子ちゃんは皆に優しく、級長の仕事をいいかげんにしかやらない僕の隣で、その仕事のほとんどをこなしていたのです。
ある日、何時もの様に、級長の僕と美代子ちゃんが進行役で教壇に立って、帰りのホームルームが始まります。その日はギリギリまで友達とプロレスごっこで遊んでいたため、おしっこに行きたいのを我慢したままホームルームが始まってしまいます。
いつもは短時間で終わるはずのホームルームが、 その日に限って学芸会の演目について男子と女子の意見が対立し、延々と終わらないのです。始まった時からもよおしていた尿意が、すでに限界に近づこうとしています。
我が侭で生意気なくせに気が弱く、人目を気にしすぎて、先生に「トイレに行かせて下さい」をどうしても言い出せない僕は、顔は青ざめ身体は震えだします。異変を察したとなりの美代子ちゃんが、心配そうに僕を見たその時、僕の尿栓の決壊が崩れ、教壇に立ったまま、皆の前で豪快におしっこを漏らしてしまったのです。
シャーーーーーーーーーッ。
薄れゆく意識の中で微かに見える目の前の光景は、信じがたいものでした。
呆然と見ているクラスメイトをよそに、なんと、並んで隣に立っていた美代子ちゃんが一寸の躊躇も無く、自分のポケットからハンカチを取り出し、そのまま素手で、僕の漏らしたおしっこを拭き始めたのです。
僕はと言えば、尿栓の決壊が崩れたのと同時に、涙腺の決壊も崩れてしまい、コチラも大量の水を流しながら、なす術無く立ちすくんでいる始末。担任の先生が飛んで来て、ぼくを保健室に連れて行きます。
その一瞬の間に、美代子ちゃんは、床のおしっこを拭きながら僕を見上げ、
「だいじょうぶだから…。」と一言。
刹那、美代子ちゃんの黒い瞳と、花のパッチン留めが煌めきます。
いつも酷い言葉を吐き、意地悪ばかりしていたクソみたいな僕に、美代子ちゃんが咄嗟にとった行動に驚きつつも、強烈な羞恥心から、それ以上の事を考える余裕も無く、保健室へ。
その後の教室の様子は知る由もないのですが、翌日学校に行けば、きっと皆から〈しょんべん級長〉だの、〈おもらし級長〉だののあだ名を付けられ(僕が逆の立場なら、確実にそう囃し立てていたでしょう)、その汚名を着たまま、小学校を卒業するまで耐え忍ぶ覚悟でした。
しかしその後皆は、なに事もなかったように僕に接してくれ、全校に知れ渡る事もなく卒業に至るのです。今思うに、僕が保健室に連れ去られた後、教壇に残った級長の美代子ちゃんが、皆に何らかの言葉をかけ、クラス全体を鎮めてくれていたのでしょう。
同じ人間とは思えない、僕と美代子ちゃんの心根の違い! まさに悪魔の子と天使の子。
その後、何のお礼を言うでもなく2年の時は過ぎ、卒業間直のある日の放課後、担任の先生から美代子ちゃんの家へ、届け物を頼まれます。
その時耳にしたのは、美代子ちゃんは、お父さんの仕事の都合で転校となり、小学校卒業後は僕らと同じ中学には行けないとの事。この街からもうすぐいなくなる美代子ちゃんと花のパッチン留めを思い描きながら、届け物を持って美代子ちゃんのお家へ。
僕 ごめんください!
家からの声 はーい。
玄関先に出て来たのは美代子ちゃんのお母さん。この街にはそぐわない程、上品な佇まい。
美代子の母 あら、かっちゃん。 おひさしぶりねぇ。
僕 あ、あのーーっ、せ、先生から…、こ、これ……。
美代子の母 はいはい、先生から聞いています。わざわざありがとう、ご苦労様でした。
僕 じゃぁ。
美代子の母 ちょっと上がっていかない、かっちゃん? カルピス飲んでいって、ケーキもあるから。
戸惑っている僕の手を取って、お母さんは玄関横の応接間に通してくれます。
応接間の存在さえ知らない僕の目に飛び込んで来たのは、本皮の応接ソファーに、当時でも珍しい大きなセパレーツステレオセット! その迫力に圧倒されながら小さくなって待っていると、カルピスとケーキを持ったお母さんと一緒に美代子ちゃんが入ってきます。
お母さんがカルピスとケーキをテーブルに置き、応接間から出て行った後…。
美代子ちゃん かっちゃんがお届けもの持って来てくれたと? ありがとう。
緊張でコチコチになっていた僕は、より一層固まってしまい、ステレオセットばかりを眺めています。それに気づいた美代子ちゃん。
美代子 これ、ステレオっち言うんよ。
僕 ステレオ?
美代子 うん、ラジオとかレコードで、音楽が聴けると。
僕 歌謡曲とかも聴けると?
美代子 聴ける聴ける、当たり前やん、当たり前田のクラッカーやん!ハハハハッ!
自分でボケて一人で大笑いしながら、一枚のシングル盤のレコードをターンテーブルに乗せ、針を静かに落とします。
流れて来たのは、当時僕の大好きだった、中山千夏の《あなたの心に》でした。
この曲を聴いているうちに、縮こまっていた身体と心が次第に柔らかくなってゆき、何故か自然と涙があふれてしまいます。 それに気づいた美代子ちゃん。
美代子 どしたん? かっちゃん泣きよると?
僕 泣きよらん! 俺、この歌が…………、大好きやけ!
「大好きやけ!」と言った瞬間、今日始めて、美代子ちゃんと目が合ってしまいます。
美代子 私も大好き……。
今思えば、美代子ちゃんと二人っきりで《あなたの心に》を聴いたこの時間は、僕にとって人生で始めて、永遠という幻を感じることのできた、至福のひとときだったのでしょう。
結局、転校で一緒の中学に行けない事等も聞き出せないまま、美代子ちゃんのお家をあとにした僕は、見送ってくれた美代子ちゃんの黒い瞳と、煌めく花のパッチン留めを思い出しつつ、泣きながら大声で《あなたの心に》を歌う、おかしな少年となって帰路につくのです。
美代子ちゃんの面影を追いつつ、何も出来ないまま中学生活が始まります。忘れられない思いの丈は、筆無精の僕に人生最初で最後のラヴレターらしきものを書かせ、学生鞄の底敷きの下に忍ばせます。
しかしヘタレな僕は、その手紙をポストに投函する勇気を最後まで持てないままに…、
淡い僕の初恋は、春の風に吹かれて、青い空の彼方へ消えて行ってしまったのでした……。
《あなたの心に》
あなたの心に 風があるなら
そしてそれが 春の風なら
私ひとりで ふかれてみたいな いつまでも いつまでも
あなたの心に 空があるなら
そしてそれが 青い空なら
私ひとりで のぼってみたいな どこまでも どこまでも
だっていつも あなたは 笑っているだけ
そして私を 抱きしめるだけ
あなたの心に 海があるなら
そしてそれが 涙の海なら
私ひとりで 泳いでみたいな いつまでも いつまで