僕たちが、♪メキシカンロック、ゴーゴー、ゴーゴーと口ずさめば、ラテンのステップを踏みながら満面の笑みで躍り出てくる角刈りの貴公子・橋幸夫。いまだ現役の75歳。 天下無敵の歌唱力と、パンチのきいたロックとルックで、ゴーゴー、ゴーゴーなのです!!
泣く子も黙る昭和歌謡界の元祖御三家・橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦。その中でも、当時一番の人気を誇った橋幸夫。1960年《潮来笠》でデビュー以来、数々のヒットを飛ばし向かうところ敵なしの戦後歌謡界初のアイドルだったのです。今のアイドルとは違って、その歌唱力は本物。演歌から小唄、民謡、和風ポップスを歌いこなし、極めつけは、能天気でスッカスカの嬉し楽しいリズム歌謡曲を歌い踊ります!
僕の大好きな橋幸夫のリズム歌謡曲は、
《あの娘と僕-スイム・スイム・スイム》
《チェッ・チェッ・チェッ -涙にさよならを》
《恋のインターチェンジ》
《恋をするなら》
そしてそして、
《恋のメキシカン・ロック》
心地よいアップテンポなリズムに乗って、独特の粘りまくる歌唱法でありながら、どこか感情を伴わない満面の笑顔で軽快に歌われたこれらの曲は、高度成長期の軽佻浮薄な戦後日本にぴったりとシンクロし、受けに受けたのでした。
高速道路が開通すれば《恋のインターチェンジ》。メキシコオリンピック開催の年には《恋のメキシカン・ロック》と、安直極まりない発想で次々と放たれたリズム歌謡。さらには《ザ・ベンチャーズ》の来日を期に、当時の日本は空前のエレキブーム。軽く明るいそのエレキの音色はリズム歌謡の軽薄さにピッタリはまり、スッカスカの彩を添えたのです。
中でも《恋のメキシカン・ロック》は、ラテンのリズムも加わり、《内容のない歌謡曲》第一位の栄冠に輝いたのです!!(いま勝手に決めました)
そもそもがリズム歌謡って何なの?メキシカン・ロックって何なの?と言う話なのですが、いいんです! そんな野暮なことは言ってはいけないのです! 大作詞家、佐伯孝夫先生が作ったのだから間違いはありません。誰がなんと言おうとパンチのきいたロックとルックなのです。
さらにはそのリズム。8ビートなのでロックちゃあロック。ラテンちゃあラテン。恐れ多くもあの大作曲家、吉田正先生の作曲なのだから、誰がなんと言おうとパンチのきいたロックとルックなのです。そして歌い踊るは、角刈りの貴公子・橋幸夫!! しつこいようですが、誰がなんと言おうと最高にパンチのきいたロックとルックなのです!(天に誓ってディスってなんかいません!)
ただただメキシカンテイストをひたすら織り込んだラブソング。地方自治体のマンホールや橋梁の親柱のデザインに名産や名物、名所を図案化したらいいんじゃねっ的な、大衆をバカにしきった発想は大正解! 大衆は思惑通りの大喜び! そう、昭和歌謡曲はこうでなくっちゃいけません。
後年、この曲のアホでスッカスカのイメージを見事にものまねで再現したのが、清水アキラの《スクール水着のメキシカン・ロック》。
スキーで鍛えた筋肉質な下半身を惜しげもなく披露。水泳帽をかぶり、浮き輪を抱えて踊りながら歌う橋幸夫の物まねは、清水アキラの最高傑作なのです。このネタ一つで、豪邸を建てたと言っても過言ではないでしょう。これで《恋のメキシカン・ロック》知った若い人も多いはず。
さらには、スカ・バンド《スカポンタス》が《恋のメキシカン・ロック》をカバー。ご本人の橋幸夫をフューチャーし、最高のスカに仕上げており、これも必見!
名曲は時代を越えて歌い継がれるのです。
僕がまだ保育園から小学校低学年の頃のお話。
当時、我が家には歌謡曲が大好きな母親が、なぜか一人おりました。
六畳間の片隅で、座布団の上にちょこんと座って、当時大流行したトランジスターラジオで歌謡曲を聴きながら、結納で使う水引細工(梅や鶴や亀等を作る)の内職をしている母の姿が、幼き頃の僕の原風景として、鮮明に脳裏に焼き付いているのです。
当時のラジオ番組は流行りの歌を頻繁に流しており、僕の中の《昭和歌謡曲》は断然1960年代のもの。そのおかげで同年代の友達と歌謡曲の話をする際、およそ10年程のタイムラグが生じてしまいます。僕にとっての御三家は、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦が当たり前なのに、友達は、郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎。 三人娘は当然、美空ひばり・江利チエミ・雪村いずみなはずなのに、天地真理・小柳ルミ子・南沙織と言いやがるのです。
母親の影響で、いまだに1960年代の昭和歌謡を愛し続けている僕なのですが、橋幸夫の《リズム歌謡曲》はことのほか大好きでした。
このブログの沢田研二(ジュリー)ネタで度々登場するジュリー狂の僕の母なのですが、実を言うとジュリーがタイガースのボーカルとして登場する前は、橋幸夫の大ファンで、歌番組に登場した際はテレビにかじりついておったのです。
橋幸夫のファンから沢田研二のファンに移行した経緯を母親に確かめたことが無かったので、今となっては知る由もないのですが、その凄まじい振り幅は、サッパリ理解出来ないのです。 兎に角、超ミーハーでイケメン好みだったことは確かで、野球は巨人の長嶋茂雄。相撲はもちろん横綱・大鵬。そして歌手は当時一番の売れっ子、橋幸夫だったのでしょう。
橋幸夫がデビューして2~3年目、吉永小百合とのデュエット曲《いつでも夢を》が大ヒット。朝ドラ《あまちゃん》の夏ばっぱが、北三陸のリサイタルで橋幸夫とデュエットしていた丁度そのころ、僕の母親は北九州の片隅で《橋幸夫・歌謡ショー》のチケット三枚をラジオの懸賞で当ててしまうのです。
懸賞マニアの母は、ちょこちょこつまらない物を当てては喜んでおったのですが、たまにこのような大物を当て、人生の運の大半を懸賞だけで使い果たした感があるのですが、後日、そのチケット三枚が送られてきた上に、な、なんと、そのラジオ局からファン代表として花束贈呈の大役を授かってしまったものですから さあ大変!
当時保育園児だった僕の記憶にも残るほどのテンパリよう。それはもう大騒ぎだったのです。
超強気で、何時だって我が物顔の母だったのですが、人前に出るのが大の苦手。まして大好きな橋幸夫に直接花束を渡すなんてことは失神もので、そんなこと出来るはずがありません。
しかしながら、橋幸夫には何としても逢いたいし、歌も聴きたい母は、当時高校生だった一番上の姉に白羽の矢を立てます。
母 あんた(一番上の姉に)、今度、歌謡ショーに連れて行っちゃるけ。
姉 歌謡ショー? え! 舟木一夫が出ると?(姉は当時舟木一夫の大ファン)
母 舟木一夫のどこがいいんねっちゃ! 天下の橋幸夫の歌謡ショーを見しちゃる!
姉 橋幸夫? まあ、行ってもいいけど…。
母 そのうえ、あんたが橋幸夫に直接花束を渡せるんよ! うれしいやろ!
姉 なんで私が花束渡さんといけんと? 母ちゃんが渡せばいいやん!
母 私みたいなおばさんが渡すより、あんたみたいな若い子のほうが嬉しいにきまっとるやろ、橋幸夫は!
姉 ……。
母 ちゃんと真っすぐ橋幸夫の目を見て「大ファンです」ち、大きな声で言わなよ!
姉 ……。
母 そんで「お母さんも大ファンです」ち、言いなさい!
姉 そんなんせんないけんのやったら、私行かん!
母 なんが行かんねっ! 今更行かんとか絶対無いんやけねっ! そんで、明日から花束贈呈の練習も母ちゃんと一緒にするけねっ!(と、逆切れ!)
たいして好きでもない《橋幸夫・歌謡ショー》に付き合わされたうえ、無理やり花束贈呈をさせられる羽目となった姉は、当日高校も早退。そしてどういう経緯でそうなったのかわからないのですが、もう一人のお供に何故か僕が選ばれ、三人でコンサート会場へ。
僕が5歳の頃のお話で、うっすらとしか記憶はないのですが、その時の《橋幸夫・歌謡ショー》は、歌とお芝居の二部構成で、何故かワクワクドキドキしながら見た記憶があるのです。橋幸夫を中心に、なんちゃら社中の綺麗な着物姿のお姉さん達が煌びやかに舞い踊ります。当時はフルバンドの生演奏が当たり前で、初めて聴く生バンドの大きな音に訳もなく心が躍り、かつらを付けた橋幸夫の股旅物のお芝居もとっても面白く、あっという間に時間が過ぎます。そしていよいよショーのラスト。ファンを代表した花束贈呈の時間となるのです。
前日、夜遅くまでの母の特訓に泣きながら耐え、ひたすら練習を繰り返した成果を今こそ見せる時。お隣に住む三つ上のお姉さんから借り受けた、少しサイズの大き目な黄色い花柄のワンピースを身に着け、大きな花束を胸に抱きしめながら、コッチコチに固まって中央通路をステージに向かって歩く姉の顔からは、あれだけ練習したはずの笑顔は消え失せ、顔面蒼白となって舞台上で橋幸夫と対峙します(そう、姉も母と同じように、ありえない程のあがり症だったのです)。
何十回と繰り返し覚えた「大ファンです」と「お母さんも大ファンです」の短い言葉も伝えられないまま、強く抱えすぎてぐしゃぐしゃに潰れてしまった花束を渡すだけが精いっぱいの姉。そしてその潰れた花束を苦笑いを浮かべながら受け取る橋幸夫。
そして僕の隣の席で、その一部始終を鬼の様な形相で見守る母。
僕にとっては人生で初めてのライヴ。その夢の様なステージはとっても楽しく、その後、エンターテイメントの虜となる貴重な体験だったのですが、その帰り道、
「あんだけ練習したのに、何でちゃんと出来んとねあんたは!」
「あんな潰れた花束渡して、橋幸夫が困っとったやないねっ!」
と母にどやされ続ける姉を見ながら、大人の不条理も人生で初めて見せつけられる事となったのです。
その後姉は、母のおかげで橋幸夫を大嫌いになったのですが、くしくも《恋のメキシカン・ロック》がリリースされた同じ1967年、ザ・タイガースが《僕のマリー》でデビュー。
以後母は、橋幸夫のことなど無かったことの様に忘れ去り、何倍もの熱量でジュリーの大ファンとなり、その後亡くなるまでジュリー一筋を貫いたのです。
それでも僕は、橋幸夫の《リズム歌謡曲》が大好きで、いまだにパンチのきいたロックとルックは、僕にとっては最高の昭和歌謡曲なのです。