あぁ麗しの昭和歌謡曲④ 日野てる子《夏の日の想い出》《南国の夜》南国に想いを馳せた歌声は、足踏みオルガンのノスタルジーと共に蘇る。

その面影と歌声は、暮れなずむ晩夏のブルーモーメントの空に浮かび上がる、黄金色の街灯に似た、懐かしさとあたたかさ、優しさとせつなさの恋慕の情。若かりし日の日野てる子は、幼少期の僕にとって、南国の美しすぎる歌姫でした。

戦後、海外渡航が自由化になった1964年以来、庶民の憧れの海外旅行の一番人気は、常夏の島・ハワイ旅行でした。しかし、サラリーマンの初任給が約2万円の時代、旅費だけで40万円近くかかるハワイ旅行は、まだまだ庶民には高嶺の花だったのです。

その日暮らしの僕の家族にはまったく縁遠かったハワイブームだったのですが、当時大人気のクイズ番組、ロート製薬提供《アップダウンクイズ》は、我が貧乏家族にも夢を見させてくれるワクワクする番組でした。見事、10問正解(ゴンドラが10段まで昇る)するとタラップが掛けられ、スチュワーデス(当時はこう呼んでいた)のお姉さんがフラワーレイをかけてくれ、《夢のハワイ旅行と賞金10万円》が送られるのです。

当時の10万円は、今の価値でいうと50万円以上はあったはず。しかし、それよりも何よりも、フラワーレイを掛けにタラップを昇って行くスチュワーデスのお姉さんの短いスカートが気になって気になって…。

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それと同時にハワイアンミュージックも大変なブームで、バッキー白片、和田弘とマヒナ・スターズ、灰田勝彦などの歌声をラジオやテレビでよく耳にしたものです。その中でも強烈に記憶しているのが、白黒の小さなテレビで始めて見た日野てる子

この世に、これほどに美しい人が存在するのかとビックリ!そして《南国の夜》の歌声の美しさとその裏声(ファルセット)に二度ビックリ! 生まれて始めて聴いた女性歌手が歌うハワイアンミュージックとファルセット、そして美しすぎる日野てる子のトリプルパンチは、幼少期の全僕を震撼させたのであります。そのすぐ後に大ヒットした《夏の日の想い出》は、ハワイアンではないのだけれど、流れる様な美しいメロディーラインと、日野てる子の清楚な色気で、幼少期の全僕を再び震撼させたのであります。

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1964年《カイマナ・ヒラ/南国の夜》でデビュー。その一年後、自身最大のヒット曲《夏の日の想い出》で紅白歌合戦出場を果たし、1970年、結婚を期に引退するまで数々のヒット曲を飛ばします。

1978年、芸能界復帰し活動再開。その後2008年、63歳の若さで亡くなるまで歌い続けます。 復活後の日野てる子は、まったく観たことがなかったのですが、YouTube で色々と拝見した所、相変わらずの美しさと素晴らしい歌声で再び魅せられたのです。

日野てる子の美しい歌声は、なぜか日本人の根源的な郷愁を誘うものでした。

夏の終り、ブルーモーメントの空の下。蒼色に染まる古い木造平屋の保育園の一室。

足踏みオルガンの優しくもノスタルジックな伴奏に乗せて、美しい歌声が流れます。そのハワイアンのゆったりとしたリズムに合わせるように、開け放たれた窓からの優しい風に心地よく揺れる白いカーテン。

日野てる子《南国の夜》を僕が始めて耳にしたのは保育園児の頃、大好きだった堤先生の歌声からでした。まだ若かった堤先生は、保育園児だった僕から見てもそれほど美人ではなかったけれど、その歌声は素晴らしく、とてもおだやかな雰囲気をまとったしっとりと落ち着いた先生でした。

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母親が仕事で、お迎えが遅くなる僕たちお残り組は、いつものように足踏みオルガンのある教室に集められ、お母さんのお迎えを待ちます。

お絵描きをしたり、絵本を読んだり、積み木をしたりと、子供達は思い思いに過ごすのですが、その日のお残り組の教室のテーブルの上には、籠の中に盛られた二房ほどの黄色いバナナが置かれ、子供達皆でそのバナナの絵を描いていたのです。

当時のバナナは超高級な果実で、兄弟姉妹4人の貧しい我が家では年に1度か2度しかお目にかかることがなく、それも半分づつしか食べられなかったほど貴重なものでした。最初は食べたくて食べたくて、絵を描くどころではなかったのですが、描きだすとすぐに夢中になる僕は、その美味しそうな匂いと黄色の皮の美しさを表現したくて、一生懸命にクレヨンを塗り重ねます。

しかし無謀にも、大人が描く様な写実的な絵を目指すものだから、保育園児の僕の力量ではなかなか上手くいきません。

何故そうなったのか。

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僕の父親は絵がとても上手く、何故か子供の宿題の絵や、ポスター制作の課題を、頼まれもしないのに子供達から取り上げて自分で描くのです。学校の課題で提出するのだから、子供らしく少しは手心を加えてくれればよいものを、何時も決って子供には絶対に描けないであろう超写実的な絵に仕上げます。

保育園の学芸会の出し物で、色々な種類の森の鳥さん達が舞台に集まるシーン。

自分達で描いた拙い鳥の絵のお面をかぶった10人ほどの子供達の中でただ一人、父親の最高傑作、今にも飛び立ちそうな凄まじくリアルなウグイスの絵のお面をかぶって「ホーホケキョ」と鳴く僕。

子供心に、ある種の罪悪感と、強烈な恥ずかしさを覚えた記憶があるのです。

超シュールなその場面の写真は、いまだに僕のアルバムにしっかり収まっており、その超リアルなウグイスの絵を見るたびに、その時の恥ずかしさを思い出すのです。

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このように、お手本が父親の超絶技法の完成された絵なので、その完成度を目指す僕は、何を描いても遠く及ばず、自分で描いた絵を見て、泣きそうになるのが常だったのです。

しかし、そんな僕の絵を初めて褒めてくれたのが、堤先生でした。

堤先生   「かっちゃんは絵がうまいねぇ。」

僕     「うまくないやん、いっちょん上手くかけん!」

堤先生   「ハハハッ、怒らんで良いやん、かっちゃんはいっつも一生懸命描きよるやろ、そんな絵はすごく良い絵なんよ。」

僕     「でも、ほんとのバナナと全然違う。」

堤先生   「だけ良いんよ、これはかっちゃんにしか描けんバナナやろ、おいしそうやん、これはかっちゃんだけのバナナなんよ。嘘がないけ良いと。」

僕     「……。」

堤先生   「先生みたいな嘘つきはいけんのよ。」

僕     「……?」

大好きな先生に褒められて嬉しかったのですが、最後の堤先生の言葉をまったく理解出来ずにいる僕をよそに、堤先生は思い直したように、「さあ、このバナナ皆で食べよう!」と言って、1本づつ子供達に分け与えてくれたのです。皆は飛び上がらんばかりの(実際飛び上がっていました)喜びよう。 その時のバナナの味は、甘くてまろやかで、堤先生の様なしっとりとした味でした。

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おやつの間、歌の大好きな堤先生は、何時も皆の知っている童謡を歌ってくれるのです。が、その日の堤先生は、何故か切々と日野てる子《南国の夜》 を歌うのです。

皆は、何の歌かわらずにポカンとして聴いているのですが、僕は始めて聴くハワイアンのせつなくも優しいメロディーに魅了され、南国の味のするバナナをすぐになくならないように、チビチビと大切に食べつつ、歌の意味はちっともわからないのだけれど、まだ見ぬ常夏の島・ハワイを思い浮かべながら、しばしの間、聞き惚れていたのでした。

オルガン1
音の書2
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堤先生は、その一ヶ月後、お嫁さんになるからと、美しい歌声を残して保育園の保母さんを退職してしまうのです。母親の話によると、お見合い結婚で遠く南国の宮崎という所へ嫁ぐそう。

皆は、幸せになって良かったと言っていたのですが、僕は足踏みオルガンを弾きながら《南国の夜》を歌う堤先生の横顔に、どこか哀しみの匂いを感じており、堤先生は本当に幸せになるのだろうかと心痛めていたのです。

その後、日野てる子は人気歌手となり、頻繁にテレビで歌うようになります。日野てる子の歌声を聴くたびに、堤先生が嫁いで行った南国宮崎に想いを馳せ、その哀愁の横顔を思い出すのでした。

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なんの因果か、その後僕は絵やデザインの仕事に就きます。仕事の最中、「これはかっちゃんにしか描けんバナナやろ」堤先生の声をごくたまに思い出すことがあるのですが、その度に初心を思い出し、改めて頑張ろうと思えたり思えなかったり…。

堤先生《南国の夜》の哀愁の歌声は、その想いの深さにおいて、僕の中では、日野てる子にも勝るとも劣らない美しい調べとして、記憶の奥底に眠っているのです。

おしまい