自らの毒で自らを蝕み、むきだしの感受性は己が命をも削る。虚構を葬った孤独の内宇宙で言葉を編み詩を歌う。 詩人の宇宙はあまりにも美しくあまりにも儚い。
中也です。
良いとこのボンボンです。
中也です。
幼き頃、神童と呼ばれました。
中也です。
ダダイズムかぶれです。
中也です。
写真の中ではイケメンです。
中也です。
働きません。生涯ニートです。
中也です。
酒乱です。しつこく絡みます。
中也です。
太宰治、大嫌いです。
中也です。
しかし、宮澤賢治を好みます。
中也です。
おそらく、境界型パーソナリティ障害です。
中也です…
中也です…
中也です…。
先日、NHK「100分de名著」の中原中也の回を見て、久しぶりに中原中也の詩の世界にどっぷり浸かってみました。
20代の頃、ちょっとかぶれていた時期がありまして、わかった気になっていたのですが、今読み返すとまったく違った意味に読み取れ、自分の感性のフィルターの変化に驚いたのです。
若い頃は、詩や俳句、和歌などの読解力にまったく自信がなく、作者の境遇や書かれた年代を調べたり、評論家の解説を読んだりしながら何とか理解しようともがいていたのですが、今、改めて中原中也の詩を感じてみると、そのエッセンスがダイレクトに伝わってきます。
青年期の感性は鋭く、中也の詩のイメージを本能で感じ興味を持ったのでしょうが、すぐに言葉の意味などの理屈で理解しようとする方向に行ってしまい、自身の感性にもっと忠実にあれば良かったなと回願します。
本来、詩を理解するのに、ダダイズムの手法やらフランス何とか主義やらは必要なく、音楽や映像と同じ様に、感じたままに素直に受け取れば良いのであって、重たい題材を扱っていても芸術に昇華されてさえいれば、何らかの開放感や超越感覚を味わえるもの。
中也の詩はオノマトペを多用しリフレインを駆使する等、非常に音楽的で、言葉の意味を大きく越えたリリシズムを発しているのであり、それを受け取った読者それぞれが、如何様にも解釈すれば良いのでしょう。
見当ハズレであろうが真逆の解釈であろうが、勘違いも含めてその時点での自身の感受性を受け入れて楽しめば良いのです。
中也の代表作に『汚れちまった悲しみに』という詩があります。
20代の頃これを読んだ時、「悲しみ」の強調あるいは装飾としての「汚れちまった」と単純に読んでいたのですが、今読んでみると、まだ言葉として認識(感情を記号化)する前の純粋な「悲しみみたいなもの」が、自我という言葉や理屈で「汚れちまった」と歌っているように聞こえてきたのです。
詩人の、何のフィルターも通さずに世界を観ていた幼年期の感覚にたいする郷愁を感じたのです。
このように、同じ人間でもその時々によって感じ方が大きく変わるのです。 詩や俳句の世界は、言葉を駆使し言葉で伝える芸術であるにもかかわらず、言葉になる前(汚れる前)の『それ』を表現するという、大きなパラドックスを内包しており、それだからこその楽しみ方があるのではないでしょうか?
中原中也は、今でいう「めんどくさい人間」の典型で、関わると非常に厄介な人種であったようです。親友の小林秀雄も、中也に対しては複雑な感情 (泰子という女性を挟んでの三角関係も含めて)があったようです。 芸術(真理の探究)を求める魂は、世の分別や、今流行の忖度等のごまかしを一切許さず、むきだしの魂で世界に挑んでしまい、その軋轢で、常人では考えられぬ程のストレスを抱え(関わる人達も同様に)てしまうもの。
中原中也も享年30にして夭逝してしまいます。
その性格はともあれ、短い生涯の中で350篇以上の詩を残します。 賛否両論はあるようですが、その才能と感性は本物であるからこそ、創作された詩から漂うノスタルジーに、時代を越えて多くの人が共感するのでしょう。
最後に僕の大好きな《朝の歌》を書にしたためて、終りとします。
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朝の歌 中原中也
天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶い
手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諫めする なにものもなし。
樹脂の香に 朝は悩まし
うしないし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな
ひろごりて たいらかの空、
土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。