この世に生まれた意味、そして生きる意味。それは言葉で簡単に語れるほど単純なものではないでしょう。 しかし尾崎放哉は、言葉で語れないそれらのものを たった一行の自由律俳句にのせて、いとも簡単に語ってしまいます。
『神はディティールに宿る』
今、この瞬間を《意識》する、この瞬間こがそすべての意味である事を放哉は教えてくれ ます。
そうは言っても日々の暮らしの中では、しなければならない事や、考えなければならない事が次々に押し寄せ、現状に追われている人達にとっては、『何が「この瞬間こそすべて」だ!』と思われる方も沢山いらっしゃると思います(はい、僕もそう思います)。
『ただ風ばかり吹く日の雑念』
『人をそしる心をすて豆の皮むく』
『考え事して橋渡りきる』
『風吹く家のまはり花無し』
一日に一回は、自身の雑念を意識的に無視して、今いる状況や風景だけを感情を通さずに、ただただ意識する時間を作ってみると、放哉の俳句が心に染込んで来るのです。
『うそをついたやうな昼の月がある』
『たつた一人になりきつて夕空』
『犬が覗いて行く垣根にて何事もない昼』
『沈黙の池に亀一つ浮き上る』
『水たまりが光るひよろりと夕風』
そうすると心に少し隙間が出来て、ユーモアや優しさも生まれます。
『ねそべって書いて居る手紙を鶏に覗かれる』
『花が咲いた顔のお湯からあがってくる』
『落葉掃けばころころ木の実』
『風の中走り来て手の中のあつい銭』
そして、この世の儚さを…。
『一日物云はず蝶の影さす』
『こんなよい月を一人で見て寝る』
『咳をしても一人』
『 何か求むる心海へ放つ』
そして最後に…。
『入れものが無い両手で受ける』
どうですか?
何か良いでしょう?染みてくるでしょう?
しかしその尾崎放哉の性格ときたら…。
山頭火もそうですが、この放哉も酒癖の悪さは凄まじく、それで人生を棒に振ったも同然で、東大出のエリート意識と、 甘え癖。そして根っからの世渡りべた(今で言う〈発達障害〉だったのでは?)であった為、晩年は小豆島の廃寺寸前の寺男として過ごします。
島での評判はすこぶる悪く、とても迷惑な人物だったそうです。
保険会社勤務時代は結婚もしていた のですが、退職後は離婚してしまい、41才の短い生涯を独り身のまま閉じます。
人は突出した才能を持ってしまうと、全体のバランスとして何処かに大きな窪みが出来てしまい、世間との折り合いがつかずに孤立してしまいがちです。
放哉もその一人で、最後迄「あかんかった」のでしょう。
しかし、人生の一瞬を切り取りその本質を表現する才能は本物で、僕たちにその豊かさを今でも与え続けてくれます。
今はちょっとした俳句ブームで、日本の文化が再認識されているようです。
忘れ去られつつある詩情を今一度呼び起こし、
その小さな生きる喜びを時代の風としましょう!
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