いがらしみきお《ネ暗トピア》から、一貫して“それ”を破壊し続ける革命的天才漫画家。

いがらしみきお

四コマ漫画《ネ暗トピア》の衝撃デビューから、自ら考える事を放棄し、《大衆の常識》《様々な権威》に無自覚に迎合してしまった僕たちに対して、その常識や権威を徹底的に破壊し続け、その後に残された不条理の荒野で「君は何を感じ、何を思うのか?」を常に問い続ける、宮城のバケモノ漫画家です。

戦後の四コマ漫画は、長谷川町子「サザエさん」、加藤芳郎「まっぴら君」らがその礎を作ります。その後、新聞の四コマ漫画の掲載が増えたのは良かったのですが、安易なサラリーマン漫画であふれ、何の新鮮味も独創性もなくなり、次第に四コマ漫画の影が薄くなります。

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そこに彗星の如く現れたのは、「バイトくん」「がんばれ!!タブチくん!!」の、いしいひさいちでした。 谷岡ヤスジの四コマ漫画を除いては、つまらないおとなの漫画という認識しか無かった当時高校生の僕にとって、「バイトくん」は衝撃的で、その斬新さに狂喜乱舞したのを覚えています。同じ頃、植田まさし「フリテンくん」の大ヒットもあり、再び四コマ漫画の大ブームが起こります。

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いしいひさいち以後、雨後の竹の子の如く四コマ漫画家が現れるのですが、そのどれもが、いしいひさいち植田まさしの亜流で、皆が食傷気味だった時期、マタギよろしく散弾銃をぶっ放しながら、「やんのかコラッ!オラ!オラ!オラッ!」と、いきなり乱入して来たのが宮城の怪人、いがらしみきおその人でした。

その作風は、物語性(起承転結)や様々なセオリーをことごとく無視。つまらない既成概念など木っ端みじんに粉砕し、超過激なエロ、グロ、ナンセンスワールドを展開。前人未到の荒野をヒステリックに大爆走!痛快きわまりない暴れようでした。

まだ、松本人志が登場する以前で、ダウンタウンの笑いにも少なからず影響を与えているはずです。

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前衛的なギャグ作家の創作における消費エネルギーは、想像するにハンパ無く、5年間の怒濤の活動を経て休筆してしまい、その期間は2年に及びました。

その間に活躍した、いがらしみきおに多大なる影響を受けた「コージ苑」相原コージの活躍も見逃せません。

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2年後、作風をがらりと変えた、動物キャラクター漫画「ぼのぼの」を引っさげ復活。

当たり障りの無い、万人ウケのかわいいキャラクター漫画かと思いきや、そこはいがらしみきお、一筋縄では行きません。

行間やコマ間?を読ませる、哲学的な内容で、様々な登場人物にしゃべらせる会話が、読者によって幾通りにも受け取れる禅問答のようなもので構成されており、又一つ新たなジャンルを開拓します。

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デビューして5年間、ひたすら世に蔓延するタブーを破壊し続け、既成概念のガラクタを一掃させました。その後のまっさらな大地に、ぼのぼのアライグマくんシマリスくんスナドリネコさんらの新たな想念たちを放ち、いまだ意味を持たない新たな世界の中で、読者それぞれがその世界に対してどのように向き合って行くのかを問いかけます。

養老孟司先生もおっしゃっております「学ぶこと、知ることは、自身が変化すること」だと。

つまり、人が真剣に学ぶ(生きる意味を問う)時、それ迄の経験の中で溜め込んだノウハウやイメージのすべてを捨て、まっさらな状態で望まないと不可能な事を、いがらしみきおは当初から発信しており、またそれを自身が実践し、その過程の中間地点が「ぼのぼの」だったのでしょう。

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ここから新たなステージ、ホラー漫画「Sink」が始まります。

現代社会を象徴するかのような、無機質な郊外のニュータウン(バブル崩壊後、開発途中で放置されたまま)の山下一家のまわりに繰り広げられる怪奇現象。 もともと、いがらしみきおの画風は意識せずとも不気味なのですが、ホラーとして作画されたそれは凄まじく異様で、物語の異常性を何倍にも増幅させる効果があります。

具体的な内容はネタバレしてしまうので書けませんが、何故ホラー漫画だったのかを考える時、〈いがらし漫画〉の根底に流れているテーマをより一層過激に、直接的に、表現するジャンルとして、最適だったのでしょう。

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文明が築いた現代社会を生きる我々(正常とされる人々)のもつ、価値観や幸福感のスケールを一瞬にして粉々に破綻させ、大量の物(物理的、観念的な)を作り、大量の物を使い、大量の物を物を捨てる、この無限のサイクルの果てに何があるのか? 人間にとってそれが幸なのか、不幸なのか? を読者は極限の状況で問われてしまいます。

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約一万年に渡って続いた縄文時代のアミニズムは (財の所有)や(近代武力)を背景とした、現代社会の起点となる渡来人に駆逐されましたが、縄文の思念は未だ消えておらず、現代社会のバランスを乱した様々なシチュエーションの隙間で、文明の因果応報の刃となって影を落とします。

いがらしみきおの心の中に眠る、蝦夷(縄文人)の集団的無意識から放たれる反骨精神(近代社会に対する違和感、嫌悪感)は、このホラー漫画の中で、激しく脈打ちます。

森羅万象を八百万の神々として捉え、鳥虫獣草木花、そして人々のすべてが等しく共栄共存する縄文のアミニズムに、今の社会を救済する可能性が残っているのか否か? そのようなことを考えさせられてしまいます。

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そして、問題作『I【アイ】』の登場です。

東北の田舎町を舞台に、医者の長男として何不自由無く育つ主人公・鹿野雅彦と、その対局として描かれる、悲惨な環境に産み落とされながらも(産後 すぐに母親が死亡、その後、虐待を繰り返す叔父との生活)、特殊な能力を持つイサオの、二人の少年が成長して行く過程で、世界とどう対峙して、どう生きて行くのかが描かれます。

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生まれた瞬間、庭の物陰に神を見たという記憶を持ち、幽体離脱し、人の心の中に溶け込む特殊能力を持つイサオの幼年期は、理解不能の異物として周りから蔑まれ、虐められます。

しかし、主人公・鹿野雅彦だけがイサオに何かを感じてしまうのです。

雅彦が生まれながらにして抱える強烈な疑問、それは「僕(アイ)とは何か?この世界とは何なのか?周りの人々との繋がりは?」

幼年期、誰しもが少なからず持つ疑問を生涯もち続け、誤摩化すこと無く凄まじい執念で探求し続けます。

「孤立してしまった僕(アイ)と全宇宙とは繋がっているのか否か?」イサオを通して世界を体感し、理解を深めていきます。

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物語の中、イサオの吐く「見たようになる」という言葉があります。見てしまった世界は必ずそうなる。逆に言えば、見ていない世界は存在しない訳で、「人が認識して初めて宇宙は存在する」という、量子物理学の最新理論にも通ずる人間の「意識」の問題に迫ります。

様々なイメージ、経験則、言葉で構成された人間の自我などは、虚構に過ぎない。「私は生きている」という時の「私」など存在せず、「生きている 」のみ(純粋意識)が残った時、「人は今この瞬間を生きることが可能なのではないか?神を感じることが出来るのでは?」と雅彦は考え、自身の身体 (五感)を削りながら、人生のラストに向かいます。

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物語の最後に、雅彦の神は見つかったのか?イサオは神だったのか?神とは何か?という、普遍的な問題に迫るのです。

いがらしみきお恐るべし!

理屈ではなくある程度体感的な経験がないと、漫画の世界でここ迄真理の探究を描くことは不可能でしょう。おそらくいがらしみきおは、生まれてから今に至る迄、 常にこの様なことを考え、感じ、探求し続けて来たのでしょう。

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五感で得たすべての意味や価値を無にして、生まれたままの感性(神の視座)で見るこの世界は、どれほどの光と美しさに満ちているのでしょうか。

そんな妄想を呼び起こさせてくれる、いがらしみきおの世界でした。

おしまい