すきすきすきすきすきっすき、一休さん。 アニメのイメージの一休さんは、ほぼ作り話。パンクロッカー《一休宗純》は、女色、男色なんでもござれ。寒さを凌ぐために、なんと仏像さえも燃やしてのけるアナーキーぶり。その手ごわさは誰も太刀打ちできません。
禅宗の僧侶達は、変人のオンパレードなのですが、その中でも群を抜いているのは《一休宗純》。変人を通り越した得体のしれない怪物ぶり。常人には100%理解しえない破戒の数々やその言動は、受け取り側の感受性を弄びます。分別や理屈では対応しえない複雑な人間心理と世界のあり様は、一休宗純的アプローチに身をゆだねてみれば、何らかの糸口を見いだせるのかも…。 し、しかし、その勇気を僕たちは持てるのか?
室町時代の臨済宗大徳寺派の僧侶で、出自は後小松天皇の落胤ということになっており、生臭坊主ではあるものの、それはそれは、やんごとなきお方なのです。 嵯峨の民家でひっそり一休さんを生んだ母は、南北朝の政争に巻き込まれぬように、5歳の一休さんを臨済宗安国寺に入れ出家させます。その寺で11年の修行期間にキレッキレの頭脳を発揮。アニメ「一休さん」は、当時のエピソードをベースに脚本化されたものなのでしょう。
一休さん16歳の時、学問・徳に優れた西金寺の謙翁(けんおう)和尚の弟子となります。一休さんはこの謙翁和尚を心底から慕っていたらしく、1414年(20歳)に和尚が他界した時は、悲嘆のあまり、来世で再会しようとして瀬田川に入水自殺を図ったそう。その後、一休さんの名付け親となる祥瑞庵の華叟禅師に師事します。その元となった一休道歌がこれ。
有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る一休み 雨ふらば降れ風ふかば吹け
有漏路とは煩悩の世界(現世)のことで、無漏路とは死後の世界(来世)を指します。素晴らしい歌に違いないのですが、まだ一休さんが覚醒する前の歌で、ちょっと型にはまりすぎて理屈っぽく面白味に欠け、一休さんらしからぬ所を感じるのです。しかし、この歌から華叟禅師は「一休」の号を彼に授けます。
一休さん26歳の時、深夜、琵琶湖岸の船上で座禅をしていた際、カラスの鳴く声を暗闇に聞いて悟りに至ったということになっています(後の行動から、“禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべき”“悟る必要はないということを悟った”とも言われている)。
※参考サイト:一休の生涯 http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic16.html
これ、凄くないですか? 禅の書物によく書かれているのですが、禅は《不立文字》と言って、お経や教義はそれなりに必要なのだけれど、文字では伝えることのできないものが真理であり、真理を感じられるのは、覚醒した師の存在の波動や、森羅万象の囁きなのだと。 覚醒はマニュアルや理屈ではなく、そこにある何でもない森羅万象のディティールを感じ取る《感受性》なのです。その《感受性》の中にすべて(慈愛、許し、包容力など)が含まれているのです。
したがって、一番最後に残る厄介な欲望が《悟りへの欲求》なのでしょう。
これこそが禅の最大のパラドックスであり、これを心と体で理解する一つの方法が《公案》や《座禅》そして日々の《作務》。しかし最後にはその《公案》や《座禅》さえもすべて捨て去り、師や仏陀をも踏み越えた、悟る、悟らないの二元論を越えた先にある、一元論世界の覚醒の大海に飛び込むことなのでしょう(もしかしたら何ら意味のない《作務》こそがその大海なのかも)。
そこに至る時、自我(煩悩)は一瞬にして消え去るのです。したがって、自分で悟りましたなんて言っている輩はすべて偽物なのです。覚醒している人間にとって、悟っているかどうかなどどうでもよく、ことさら世間にアピールする必要など、1ミリたりともないのです。
漆黒の闇に響き渡るカラスの鳴き声「アーーーーーーッ!」を心身で感じた瞬間、一休さんは死に絶え、一瞬にしてスーパーサイア人《一休宗純》として生まれ変わります。
ここからが、僕ら凡人には到底理解不可能な捉えどころのない、スーパーサイア人《一休宗純》の面目躍如! もう狭い庵に収まることなんて出来ません。庵を飛び出し庶民の間に飛び込んで行き、説法行脚の旅が始まります。パンクロッカーに恐いものなし! 仏教徒の戒律、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見のことごとくをあざ笑うかのように破戒してゆくのです。
持戒は驢(ろば)となり 破戒は人となる
釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
人間は、自らの欲望を恐れているうちはその恐怖からは逃れられません。戒律で欲望を抑圧するということは欲望の本質に蓋をし、人間の欲望そのものを理解しえないのです。一休さんのようにことごとく破戒しろとは言いませんが、まずそこに善悪を持ち込まず、欲望のシステムを理解、体感すること。 そのとき初めて気づきが生まれ変容が始まると一休さんは言います(いや、言ってないし)。
嘘をつき 地獄に落つるものならば 無き事作る釈迦いかがせん
世間体ばかりを気にしながら権威や金銭を欲しいままにし、高僧然としてふんぞり返っている、腐りきった当時の宗教界(現在も似たようなもの)を 生涯強烈に批判し続け、常に社会的弱者からの視点でものを考え行動した一休さん。その徹底ぶりはこの言葉に集約されています。
女をば 法の御蔵と云うぞ実に 釈迦も達磨もひょいひょいと生む
女人禁制、女性蔑視の当時の宗教界にあって、高僧らが崇め奉る釈迦や達磨も、女性の体から生れ出たものではないかと、痛快に批判します。イエスがマグダラのマリアを差別せず救いの手を差し伸べたのと同様、一休さんは女性に限らず分別なしに人と交わり、大衆に救いの手を差し伸べました。
作りおく 罪が須弥ほどあるならば 閻魔の帳に付けどころなし
これも一休思想の最たるもの。罪と罰という因果律の恐怖では人は解放されないのです。恐怖で欲望を抑圧する限りは、真理の理解はあり得ません。その恐怖から、いかに開放されるか、その引力から、いかに自由になれるかを一休さんは身をもって体現し、世に示しました。
偶像崇拝を否定する禅僧にあって、木彫りの仏像をある時は愛おしく磨き上げ、また真冬の寒い夜には、薪として仏像を燃やしてしまった逸話の残る一休さん。真意のほどは定かではありませんが、これほど彩や形に迷わせられることなく、信仰(色即是空)の本質をえぐる逸話を僕は知りません。
ここまで理屈っぽく、訳の分からんことを書き散らして言うのも何なのですが、一休さんがその生きざまで示したのは、物事、理屈では解決しないということ。
「自信の仏心(神)に素直に心を開き、その直感を信じて生きてゆく勇気を お前達は持てるのか?」
を ポャーーッと生きている僕たちに問うているのです。人は直感を掴んでも、すぐさま分別というフィルターを通してしまい、利害や世間体を考え、安定や安心を基準に選択してしまうものです。
パンク坊主《一休宗純》は、道歌を通してアナーキズムを歌います。
賛否渦巻く一休さん。このパンク坊主が悟っていようがいるまいが、そんなことはどうでも良いのです。この道歌からほとばしるユーモアと反骨精神。そして権威にのさばり、宗教精神とは正反対に生きる者たちへの強烈なアンチテーゼ。頭髪は剃らず、女色、男色お構いなし、さらには、弟子たちに「師がいなくなったらどう修行すればよいのか」を問われたとき、「娑婆に出て遊郭の下男で働いたほうが、仏法を学ぶより遥かにましだ」的なとんでもない返答を。
臨終の間際に及んでも「死にとうない」とのたまい、最後までパンク坊主を貫いた心意気に、何だか泣けてくるのです。
理屈や法律ではどうにもならなくなった末法の時代。
今こそ必要なものは、一休宗純のユーモアを伴ったダイナミックなアナーキズムが必要なのだと思うのですが…。
南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃ だうじゃかうじゃといふが愚かじゃ