《南方熊楠》南方曼荼羅の示す、“萃点”とは何処だ?

南方熊楠

民俗学者・柳田国男をして、日本人の可能性の極限と言わしめた南方熊楠。信じがたき知識量と記憶力、傍若無人な振舞いにも関わらず、純粋無垢な人懐っこさ。その計り知れない人間力は、説明不可能の明治の巨人?変人?奇人?怪人?

僕ごときが語りうる人物でないことは百も承知なのですが、最近、どうしても頭から離れないので、少しだけ語らせて下さい(長くなるかも…。)

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あらゆる分野(博物学・生物学・植物学・天文学・民俗学・人類学・細菌学等)に精通した複合的な視野を持ち、発表された論文や随筆は、カオスの魅力を放つ。ミクロとマクロの世界を縦横無尽に駆け巡る密教的な熊楠の世界観(金剛界・胎蔵界)は、常人の理解の、到底及ばぬ所にあります。

1867年紀伊国・和歌山に生まれ。小学生の頃、知り合いの家にあった『和漢三才図会』105巻をそのまま記憶し、帰宅後、頭の中に記憶したページ の内容を筆写、そのすべてを写し取ります。

『求聞持法』で習得した空海と同じような超人的な記憶力は、常人とは異なる脳の機能を先天的に授かって生まれたものだったのでしょう。また、頻繁に植物採集のため山に分け入り、そのまま3日間帰ってこなかった等という異常な集中力を表した逸話も残されています。

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中学卒業後上京。現・開成高校から、現・東京大学、大学予備門に入学。同窓生には夏目漱石、正岡子規、秋山真之等がいました。

しかし学業そっちのけで、菌類の標本採集などに明け暮れ、大学予備門を落第し中退。失意に暮れる間もなく、「僕も是から勉強をつんで、洋行すましたその後は、ふるあめりかを跡に見て、晴る日の本立ち帰り、一大事業をなした後、天下の男といはれたい」の言葉を友人に残し、より強烈な大志を抱き、単身渡米します。

若干二十歳の若者が何の後ろ盾も無く、西洋の学問の習得を目的に、単身アメリカへ渡る恐るべき行動力も、強烈なナショナリズムと底知れぬ好奇心を持った熊楠にとっては、自然なことだったのでしょう。

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ミシガン州の農業学校には入学するのだけれど、その自由奔放な振舞いと、アカデミックな教育では満たされない、溢れ出す好奇心を押さえられず、植物採集などフィールドワークのため全米各地を転々とします。

その過程で、熊楠最大の研究課題『粘菌』の魅力に取り付かれ、その宝庫であるフロリダへ、顕微鏡と護身用の拳銃を携え旅立ちます。

人種差別の激しかった時代、その逆上癖から各地で喧嘩を繰り広げつつも、持って生まれた〈人たらし〉の魅力から、沢山の友人を得ます。

フロリダでは、親切な中国人の世話になりつつ植物採集を続け、なんとキューバにまで足を伸ばし、そこで知り合ったサーカス団の日本人の世話で、一時期その一座の象の世話係として、中南米の巡業を3ヶ月程共にしたそうです。なんか、映画のストーリーのような逸話で、心躍りますね。

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1892年、熊楠25歳、いよいよ当時の学問の最高峰、本場イギリスに渡ります。この時、金銭的にも援助してくれていた父の死を知り、愕然とします。 以後のイギリスでの生活は困窮極まりますが、8年間の滞在を果たすのです。

イギリス時代も数々の逸話を残すのですが、大英博物館で知り合ったディキンズの斡旋で、東洋図書目録編纂係としての職を得、様々な書物を筆写し、その成果は、全52冊の「ロンドン抜書」として世に残ります。

生涯に渡っての熊楠の口癖は「読むことは写すこと。読むだけでは忘れても、写せば忘れぬ」だったそう。パソコンでの〈コピペ〉三昧の僕ら現代人にとって、耳の痛い言葉です。

僕にも少しだけ実体験があるのですが、他者の詩や俳句を書に写すとき、読むだけの時よりも何故か作者の意図や感情みたいな物を感じることが多いのです。よく解らないのですが、凄く不思議な感じなのです。

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話を戻しますと、イギリス時代、科学雑誌《ネイチャー》に載った熊楠の論文は、帰国するまでになんと30編に及びました。それも専門の植物学は言うに及ばず、星座や十二支に関する考察など多岐にわたるもの。

又この時期、《辛亥革命》孫文や、後に真言密教・高野山管長となる土宜法龍と意気投合し、生涯に渡って親交を深めます。

しかし、不条理な人種差別などにより、何度もトラブルを起こした熊楠は、とうとう大英博物館を追放され、1900年、失意の内に帰国します。

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帰国後は、郷土和歌山、田辺市に居を定め、粘菌の採集、標本作りに没頭し、1905年、大英博物館にその粘菌標本集を送り、《ミナカタ》の名は、粘菌学者として、世界中に知れ渡るのです。そして1906年、神社宮司の娘・松枝と結婚、生涯の伴侶を得ます。

しかし南方熊楠の有り余るエネルギーの発露は、ここから始まるのです。

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1909年、明治政府の国策、「神社合祀令」が施行されます。これは、日本全国津々浦々に点在する神社の祭神を、その地域の主要な神社に合祀させ、神社の数を減らし、その神社林を伐採、売却し、国の財政に当てるというもの。

特に熊楠の住む熊野は、大小さまざまな神を祀った神社が点在し、そこには太古の昔よリ大切に守られていた広大な鎮守の森がありました。熊野の森は、縄文の昔よリ続く自然崇拝の信仰が、仏教や修験道などと混交し成り立った、貴重な森で、日本の宗教観の根源を考える上でも無くしてはならないもの。

太古より日本のご神体は森そのものとするもので、熊楠にとっては、我が身を削られる思いだったのでしょう。

熊楠《神社合祀反対運動》にかける情熱は凄まじく、様々な新聞社にあてた過激な抗議文や、ある時は暴力を伴った激しい物で、何度か投獄されたほど。しかし、その運動が実を結ぶ1920年までに、熊野の神社の約9割が滅却され、神社林が伐採されてしまいました。

何故に熊楠は、命を張ってまで熊野の森を守り抜こうとしたのか? それは熊楠がもつもう一つの顔、思想家としての一面を知る必要があるのです。

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熊楠の思想家としての顔は、イギリス時代に知り合った、真言密教の僧侶、土宜法龍との書簡のやり取りの中から垣間みることが出来ます。

真言密教の弘法大師(空海)が中国より持ち帰った曼荼羅思想は、熊楠に大きな影響を与え、密教思想に熊楠が自然観察で直接体感した宇宙認識を重ね合わせた独自の曼荼羅、《熊楠曼荼羅》を表します。(下図)

曼荼羅

どうですか、訳分からんでしょう?僕もわかりません。 こんな汚い線で描いた曼荼羅、誰がわかるっちゅねん!と思わず関西弁になる程にチンプンカンプン。

しかし諦めずにじーっと眺めてみると、なぜか 色々なイメージが浮かんでくるのです。 熊楠は、若い頃から言っているのですが、学問(真理)を探求する為のアプローチに、物事は細分化された、部分を幾ら調べても限界があり、一つの学問の知識だけではなく、様々な学問の視点から多面的に調べていくことによって、解明出来るはずだと。

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これは時間的な考察にも言えることで、過去、 現在、未来の直線上に一方方向に流れるだけの時間感覚だけだと、物事の理解に限界があり、《360度全方向に理解が広がる瞬間》を掴んだその時、 言葉や理屈では理解し得ない普遍的な情報を知る領域があると言うことなのです。

ゴメンナサイ。書いている僕が言葉で表す術を持っていないので、 訳分からんでしょう?僕もわかっていないのでしょうね。

要するに仏教(密教)的にいうと、蒙昧な物を記号化して分類しても普遍的な理解は無く、蒙昧な物を蒙昧な物としてそのまま理解することのみが、真理を知り得る。林檎をみて、観察者が一方的に、色や形、味やにおいを分析しても、林檎そのものを感じ得ず、観察する物(主体)と観察されるもの(客体)が一体となった瞬間こそが真のコミュニケーションで、先ほど言った、《360度全方向に理解が広がる瞬間》が現れ、そこに全てが理解出来る特異点(悟り)があるということ。

増々わからん様になったのでこの辺で。

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《熊楠曼荼羅》に話を戻しますと、物事は、色々なエネルギー(曲がりくねった線)が交差し、その全てを含んだ一点(イロハと書いた○印)が必ず現れてくると。その点を熊楠《萃点》と呼びました。この萃点は何カ所かあり、大本の中央の(イ)とする丸印こそが、先ほどグダグダと説明した《360度全方向に理解が広がる瞬間》の特異点とほぼ同じ様な物なのではないでしょうか?

また、面白い意見もあって、《熊楠曼荼羅》を人間の脳の断面図とし、顕在意識や無意識が乱雑に交差し、想念が多く重なる点を《萃点》として、その大本の中央の(イ)とする丸印を、デカルトが「魂のありか」と呼んだ、《松果体》と見るのです。物質と精神が交差する点、第三の眼、7番目のチャクラと、様々な呼び方のある脳内の小さな器官なのですが、おそらく時間と言葉を超越する秘密はこの器官にあるのでしょう。

また、上部の二本の線は、宇宙的無意識の領域と考えた場合、ここに無限の智慧(情報)が漂っており、それは《萃点》or《松果体》を通して受け取る仕組みになっている。熊楠の記憶の方法や、世界認識の仕組みは、この辺りのシステムが大きく関わっていたのではないでしょうか?

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やはり南方熊楠は、僕ごときが語るには器が大き過ぎて手に余るようです。宗教学者の中沢新一が、熊楠本を沢山書かれていますので、興味のある方は、そちらをお読み下さい。

表紙のイラストの歌は、昭和天皇が田辺湾沖合いの神島に訪問した際、粘菌等の御前講義を行なった熊楠が、その時に詠んだ歌で、誇らしく、涙が出る程に感激した気持ちが溢れ出ています。

歌一枝も心して吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめでましし森ぞ

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1962年、再び紀伊を訪れた昭和天皇は、33年前に出会った熊楠を追憶し、歌を詠みます。

昭和天皇

「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

時を越えた昭和天皇の返歌に、熊楠の魂は何を思ったのでしょうか?

からす

1941年、日本が、熊楠の友人の多かったアメリカに真珠湾攻撃を仕掛けてしまった18日後、「天井に紫の花が咲いている」の言葉を残し激動の人生を終えます。享年74歳。

肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」と、最後まで反骨精神を貫いた南方熊楠。 また、民俗学者・柳田国男「日本人の可能性の極限」とまで言わしめた南方熊楠

思想家・南方熊楠の残した精神性は、現代の地球危機を救う大きなヒントとなりうる《エコロジー》の源泉なのではないでしょうか?

音の書2

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おしまい