《岡村隆史のオールナイトニッポン》 コロナ騒動の最中、ラジオ・オンエア中の不適切発言で大バッシングにさらされた岡村隆史。はたしてその芸人生命は?

岡村隆史

今週の《岡村隆史のオールナイトニッポン》で、相方の矢部浩之が、先週の放送で不適切な発言があった岡村隆史を延々と公開説教するという、あまりにも悲しくてつまらない番組を聴いてしまい、「稀代の芸人一人、殺してしまう気かぁーーーーーーっ!」と大声で叫んでしまうほどにやりきれなさを感じたのです。はたして本当に、岡村隆史だけが悪いのか?


事の詳細はネットニュースでご存知の方もいらっしゃるでしょうが、その大まかなラジオでの失言の内容は、


「新型コロナウイルスの影響で風俗店にも行けない」というリスナーからの投稿に対して、
「今おもしろくなかったとしても、コロナが終息したら絶対おもしろいことあるんです。短期間ですけれども、美人さんがお嬢やります。なぜかというと、短時間でお金を稼がないと苦しいですから。」 


と、言うもの。


笑いを取りに行ったボケだったのでしょうが、確かに女性蔑視や人間性を疑うような失言だったのかもしれません。風俗店で働かざるをえない何らかの事情があって、苦しみながら必死に頑張っている方々に対して、あまりにも配慮が足りない発言だったのかもしれません。

今の時代、このような失言に対しては総バッシングされるのは当たり前で、芸人として生き残るには《謝罪》するしか道はなかったのでしょう。しかし、この件に限ったことではなく、ひとたびバッシングが始まると反対意見を一切排除、ほぼ100%同意見の書き込みがネット上に並ぶ今の風潮は、健全な社会といえるのでしょうか? 

異なった意見にはまったく耳を貸さず、擁護的な意見を言おうものなら寄ってたかって総攻撃。色々な意見や見解をそれぞれが言い合い、お互いの意見を尊重しながらの議論は出来なくなっている昨今、追い打ちをかける様なコロナ騒動で皆さん余裕がなくなり、増々その傾向が強くなっているように思われます。


はたして人ひとりの内面や人間性を たった一度の言動で測れるものでしょうか? 

からす


道徳や常識という《スケール》を振りかざし、一度の言動でその人物の存在そのものを全否定することは正義なのでしょうか?

 
僕なんかの性根は、ズルくて、嘘つきで、スケベで、ケチで、差別的で、嫉妬深くて、分別がなく、自己顕示欲の塊で……、 道徳や常識と相反するどす黒いものが心の底で渦巻いている人間です。 それらの《業》を抱えながら、世間と対峙してゆく中でなんとか《理性》を育み、その消せない《業》を手なづけつつ、なんとか生きているのが現状。

 
人をバカにしたりバカにされたりの過去、

人に言えないほど恥ずかしかった経験、

人をひどく傷つけてしまったこと、

人を恨んでしまったこと、

など、沢山の過ちを犯しながらの、しょうもない人生を歩んできた僕には、人を攻撃したり測ったりする道徳や常識という《スケール》は持ち合わせていませ
ん。


今の闘争や戦争だらけの世界を作ってしまった僕達人間は、そもそもがそんなものなのです。そして、まぎれもなく僕達一人一人がこのクソみたいな世界を作ってしまったのです。 

聖人君子なんてものは、ほぼ存在しません。人間誰もがさっき書いた、たくさんの《業》を抱えながら生きている生き物なのです。その《業》をそれぞれが気付き、認識し、しっかり自覚した上で、言葉を発したり批判したりした時、人の持つ《グレーゾーン》を許容できる余裕が生まれるのではないでしょうか?


で、今週の《岡村隆史のオールナイトニッポン》 

芸人であるはずの矢部浩之《絶対正義》の立ち位置で、稀代の芸人・岡村隆史を見下すように最初から最後まで説教をする様をオンエアしたのです。 

元来、精神的な弱さを持ち、バッシングにさらされている岡村隆史はまともな精神状態ではなく、「すいません」「申し訳ない」を繰り返すばかり。 助っ人として来たはずの矢部孝之に芸人としての意識は薄く、番組そのものは全く成立
していませんでした。


わかるんです。今は岡村隆史を徹底的に批判して、反省の態度を引き出すことによって《禊》としようとしたこと。相方が容赦のない、全否定の意見を浴びせることによって世間に《許し》を求めようとしていたこと。 矢部浩之の意図は痛いほどよくわかるのですが、そうしながらも今後芸人として生き残れる道を残しつつ、笑いに昇華させることを望んでいたのですが、その技術や才能は矢部浩之には欠片も無かったのです。


コンビを組んでデビューして今に至るまでの、岡村隆史の非常識的な言動の数々を ここぞとばかりあげつらい、公の場でその根本的な性格を徹底的に非難することに何の意味があったのでしょうか? そもそもが《ナインティナイン》というお笑いコンビは、岡村隆史の本来持っている異常性や特異性を 岡村隆史自身がコミカルに表現し、それを矢部浩之が観客の立場でツッコんで笑いを取ってゆくスタイルだったはず。 

《ナインティナイン》を見て笑っていた人たちは、岡村隆史のちっちゃいオッサンの異常性を笑っていたはず。 演者が持っている《業》、さらには観客が持っている《業》の全てをひっくるめて笑い飛ばすのがお笑いの醍醐味ではなかったのか?

からす


矢部浩之もその《ナインティナイン》のスタイルを容認しながらのし上がり、今の地位を築いたのではなかったか? 矢部浩之《常識》岡村隆史《非常識》を笑い、バカにするスタイルを続けてきた結果、今があるのではなかったか?


今週の放送はそういう意味で、今までの《ナインティナイン》の笑いさえも否定しているように僕には聴こえてきたのです。《常識》《非常識》《絶対正義》の立場からただただ、たしなめ、非難し、反省をそくしただけで、そこに芸人の心意気は微塵も感じなかったのは、僕だけでしょうか。

 
ただのお笑い好きで芸人でも何でもない僕が、あくまでも勝手に思っていることなのですが、お笑いに含まれている要素の中には、差別や人を見下すことや、人の失敗や不幸を面白がることなどが確実に含まれています。 

それらを表現出来る一流の芸人は、その《笑い》を引き出すために、自身が持っている《業》を包み隠さずにさらけだすこと。身も心も素っ裸になり、さらけだした《業》で観客を笑わせるのと同時に、観客自身の《業》をもあぶりだし、問題提起をする事だと思うのです。

からす


今流行りの《誰も傷つけない笑い》とは何なのか? 


《人に優しい笑い》とは何なのか?


マルクス兄弟、バスターキートン、チャップリン、モンティパイソンの昔から、笑いには毒と薬が共存していました。また、日本の伝統芸《落語》などは、異質や異端な人間を徹底的にバカにし、蔑み、差別してしまう人間の《業》を表現しながらも、そこには共栄共存という収まりどころを模索する《優しさ》《許し》が内包されていたように思うのです。


《絶対正義》の剣をかざし、人間であれば誰もが持つ《業》には一切目を向けず、いわゆる《誰も傷つけない笑い》だけを容認する人たちの心の中に、はたして本当の《優しさ》《許し》は存在するのでしょうか?

からす


人は皆、《グレーゾーン》のなかで生きています。しかし、様々な状況の中で《理性》で蓋をしていた《業》が溢れ出ることも一度や二度はあるはず。
私は差別しません。私は人を傷つけません。私は社会のルールをすべて守ります。と本気で思っている人もおられるでしょうが、そういう人ほど、人の落ち度や失敗を許さず弾圧する、強い《攻撃性》を有しているもの。 

今回の岡村隆史の不適切な発言の根底には、常日頃の女性蔑視の思想や芸能人特有の甘えの構造があったのでしょうが、罪を犯したわけではないので、しっかり謝罪すればそれでよいのであって、ラジオの番組の中で笑いにも繋がらない公開説教のような、人格を全否定するトークは必要なかったはず。

からす


今回の感想も僕のつまらないスケールで測ったもので、明らかな自己矛盾をはらんでいることは承知しているのですが、今週のラジオのオンエアで僕が一番悲しかったのは、同じ芸人であり相方でもある矢部浩之が、才能豊かな芸人・岡村隆史を殺してしまったように聴こえたことなのです。 

もちろん、矢部浩之自身はそんなつもりは微塵もなく、逆に芸人・岡村隆史を救うためのトークだったこと、思いやりや愛情を伴ったものであったことも理解しているのつもりなのですが……。 

ネット上では矢部浩之の公開説教は大絶賛、いわゆる常識的で善良な人たちの代理として非常識な岡村隆史を戒めたことに留飲を下げているのでしょう。 


それにしても、才能豊かな芸能人たちが、たった一度の過ちで次々と抹殺されてゆく今の日本の風潮は、まともな社会とは思えません。


今後、芸人・岡村隆史は、どのような笑いを構築していくのでしょうか? そしてそれは可能なことなのでしょうか?

あぁ、日本の芸能界から突出した芸人や突出した笑いが次々と骨抜きにされ、そして消えてゆく……。

最後に天に問いたい、

「笑いとは何なのか?」

おしまい