二代目《桂枝雀》稽古の鬼、努力の天才、アホとカシコを行ったり来たり。最後はアホに振り切ってほしかった!

桂枝雀

インテリジェンスの畑の上に、笑いの花を咲かせ続けた桂枝雀。緊張と緩和、善と悪、光と影。そして最後は、生と死の狭間にあって、あと一歩のところで光明を得たはずなのに…。 いまだ、二代目桂枝雀に代わるもの無し。

NHKで放送中の《超入門!落語 THE MOVIE》。 当たり外れはあるものの、なんとも不思議な面白さなのです。

噺家一人が、ナレーションとすべての登場人物を演じ、観客それぞれが、そのお話を脳内で映像化。観客にどれほどのリアリティーと笑いと感動とを与える事が出来るのかが勝負の一人演芸にあって、その上に役者が演じる映像を被せることは、本来ならやっちゃいけないことなのでしょう。

《超入門!落語 THE MOVIE》では、噺家の声に合わせて、役者さん達がオーバーアクションの演技で口を動かす、いわゆる「リップシンク」で構成。いままで見た事や感じた事のない、独特の世界が展開されるのです。

漫才師・千鳥の大悟がくず屋を演じた《井戸の茶碗》の回は、本当に素晴らしかった。落語の登場人物を演じるのは、手あかの付いた役者さんよりも、演技の達者な芸人さんの方が、なぜかしっくりくるようです。落語の素晴らしさをダイレクトに伝えるこの試みは、ファ ンの裾野を広げる意味で非常に有意義なことで、長く続いてほしいものです。

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で、落語と言えば二代目桂枝雀

落語はそれほど詳しくないのですが、ちょこちょこ聴き始めた頃、一番に飛びついたのは桂枝雀。初めて落語を生で聴いたのも枝雀でした。桂米朝一門 から、オーバーアクションの風変わりな噺家として頭角を現してきた枝雀。その頃は、関西一の人気者の噺家として大活躍をしていました。

同じ頃、東京の落語家さんで一番勢いがあったのは、《笑点》を作ったとされる、立川談志。どちらも理論派で哲学的な落語をやるのですが、談志は、毒舌と客を突き放すような(実際は繊細で優しい)キャラクターで、大衆になじみにくかったのですが、枝雀の方は、あの佇まいとキャラクターで、インテリジェンスを包み込み、オーバーアクションと幼稚な演技で、一般大衆にも、マニアにも、絶大な人気を誇っていたのです。

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師匠・桂米朝の知的で品のある芸風を受け継ぎつつも、そのなかに独自のギャグのセンスを入れ込み、大爆笑を誘います。落語お決まりのアホな登場人物のギャグで爆笑を誘うのですが、時々放たれる芯をくったフレーズがどこか哲学的で、その笑いは、徹底的な理論や理屈を経ての計算されたものであることがわかるのです。

古典から新作落語まで、すべてにおいて極限まで完成度を求める枝雀の落語。そのストイックすぎる姿勢は自身の精神をも蝕み、遂には重い鬱病に苦しみます。 アルコールや合法ドラック等で誤摩化しながら鬱病と戦っていた、同じ関西の作家・中島らもにとても近いものがあり、その最期は、二人とも非常に残念なものでした。

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持ちネタは、長尺物の大作も沢山あり、どれも秀逸なのですが、晩年の演目に《山のあなた》という小品があります。

枝雀落語の世界観は、哲学的で宗教的なものがベースに有りながら、それを超越した先の笑いを模索しており、枝雀自身も理想とする究極の芸は、出囃子に乗ってニコニコと登場し、一言も言葉を発することなくそのままはける。それだけでお客さんを納得させる事だと、禅の坊主が言うような言葉をはいており、それを目指していたのです。

その理想に近づく、一歩手前の落語のように僕には思えたのですが…。

この《山のあなた》という新作落語は、ドイツの詩人カール・ヘルマン・ブッセ《山のあなた》という詩をベースにした、枝雀自身の創作であると思われます。

最初に聴いた時は、笑いながらもシミジミと涙が溢れ、胸にズシンときたのを覚えています。

落語本来の楽しみ方からは少しズレているのかもしれませんが、この話は枝雀のパーソナリティー無しでは表現し得ない深遠なもので、出来ればまず、枝雀の落語をご覧になられる事をお勧めします。

桂枝雀 《山のあなた》
https://www.youtube.com/watch?v=cXyqP7EgkqQ

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毎日の仕事や居場所のない家庭に疲れ、生きる意味を見失ないつつあった、一人のサラリーマンが、休日に何となく乗った電車に導かれた山裾の駅、気の赴くままに山路を辿り、青い山々の奥深く行き着いた先は峠のみすぼらしい一軒の茶屋。

そこで出逢った老婆との何気ない世間話から物語が始まります。

老婆は、ここから見える山々の四季を通した緑の彩りの豊かさと、その有り難さを話します。 サラリーマンは都会の喧噪から逃れた開放感から何気なく老婆に 「“山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう”という(幸い)ちゅうんは、この辺りにあるんやろなぁ。」と問います。

と、老婆は(さいわい)ならおりますよと、当たり前のように答えるのです。「山の尾根二つ越えた先におおきな原がありましてですね、そこにおりますですよ(さいわい)が。」と。

その(さいわい)というのは、どっちが頭で尾っぽかわからん、白いフワフワしたもので、その原をウロチョロしているそう。 半信半疑のサラリーマンは、老婆に「どうしてそんな事がわかるのか?」と問いますと、 老婆は自身の生い立ちを語り始めます。

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生まれてすぐにふた親に死に別れ、小さな頃から奉公に出されます。そこで過酷な労働を強いられ、年中病気がちでやせこけた身体となりその運命を恨みながら育ちます。 年頃になって工場に働きに出るも、まわりと比べて自分の容姿が酷く醜い事を自覚します。その上性格も陰気で、男友達どころか女友達も出来ず気が鬱々としていた所、不治の病にかかってしまうのです。

自分の親を恨み、その境遇を呪ったあげくに、村の深泥池のほとりで入水自殺を計ろうと佇んでいますと、白いヒゲをはやした痩せた老人がヒョコヒョコと現れ「恨んで死んじゃだめだ。死ぬ前に(さいわい)をつかませてあげるからついてこい」と言われ、山の尾根二つ越えた先のおおきな原に連れて行かれるのです。

そこには、白いフワフワした(さいわい)がウロチョロしており、それを見た瞬間、気持ちがスーと落ち着き、その(さいわい)を捕まえようとしますがなかなか上手くいきません。そのときその老人に「抱っかまえるか抱っかまえんのか、わからん所で抱っかまえろ」と訳の分からない事言われ、抱っかまえようとるのですが上手くいかず、ここの茶屋で暮らさせてもらいながら、日々、白いフワフワした(さいわい)を捕まえに原へ通います。

三年ほど経ったある日のこと、ほぼ諦めかけどうでもええと思いながら何気なく(さいわい)を抱っかまえたところ、スッと自分の懐に入り込んで来たそう。 そのときの至福感といったら…。

サラリーマンはその時の気持ちを具体的に教えろと、老婆にせがみます。

老婆が言うには「お天道さま、おられますですね。それで山、生きとられます。樹も生きとられます。鳥たちも生きとられます。虫たちも生きとられます。私も生きとるのです、ちゅうことですね。そんで、ありがたいことじゃなぁ〜というようなことですかねぇ… はい。」

サラリーマンは「ようわからんけど…。(さいわい)がおるにしても、ワシらの住んどる都会のゴミゴミした所には(さいわい)は見つけられんやろなぁ、 山のあなたの空遠くの所にしか。」と、独り言のように言うと…。

老婆が言うには、「そんな事はございません、私の住んどる山のあなたの空遠くの所から見れば 、あなたの住んどる都会こそが、山のあなたの空遠くですけねぇ…。」

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最後のオチは、いかにもインテリジェンスな枝雀らしく、量子力学の観察者の態度が世界を決めるという、パラレルワールド的なもので、(さいわい)を抱っかまえるヒントが隠されているのでしょう。

(さいわい)と言うのは、人の欲望や野望で抱っかまえられるものではなく、ただただ森羅万象を感じ、今だけをすべてとして生きる態度こそが(さいわい)を感じる心となるのではないでしょうか。

理屈ではわかっていても、生身の身体と心で現実に対峙しながら生きていくなかでは、しょせん机上の空論と何度も挫折してしまうもの。しかし生きている限りその可能性は誰にでもあるわけで、どこかでくだらない自我を(アホ)の支離滅裂ないいかげんさで溶かせる事を信じながら僕らは暮らしているのです。

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枝雀の落語のなかでは、ここでは書き漏らしている小さな珠玉の言葉が散りばめられており、そのキャラクターや言葉のイントネーションも含めて、何か感じるものがあるはず。

自殺を思いとどまらせた老人は「恨んで死んじゃダメだ」と言います。物事はいかなる理由があるにせよ(それが真実や正義である事などは、どうでも良い)、恨んだり憎んだりの想念は、自身をも苦しめるのでしょう。やはり理屈では解決出来ないのです。

理屈(カシコ)の世界から後一歩で(アホ)の世界へ解き放たれたであろう桂枝雀が、最後まで理屈(カシコ)の世界に縛られ続けたのは、残念でならないのです。 僕たち凡人ではたどり着かない、その特異点にあった桂枝雀にしか感じ得ない、計り知れない苦悩があってのでしょう。

やはり吉田拓郎が言うように、「理屈で愛は語れない」のです。最後はすべて振り切って、(アホ)の世界に入った時、見た事のない違った次元の世界が垣間見えるのでしょう。

山のあなた

音の書2

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おしまい