《田中理事長&山根会長》過去・現在・未来に渡って、第三の目で自身の姿を見れたなら。クリスマスキャロル・スクルージの見た夢。

田中山根

新・アンガールズは、全く違う意味で世間を笑わせてくれています。しかし、その笑いは何時しか笑っている本人(世間)に帰ってくるもの。クリスマスキャロルの主人公、エベネーザ・スクルージが見た夢(田中・山根両氏の現状)は、千載一遇、《気付き》の最後のチャンスなのですが……、残念!!

柔道、相撲、レスリング、フットボール、ボクシング…、それぞれのスポーツの一部の強権的な指導者、代表者のパワハラ、セクハラが次々とあぶり出されている昨今。いまだ旧態然とした思考回路しか持ち得ないジジィ、ババァの強引なやり口は、この時代全く通用しないことを 僕らを含めたジジィ、ババァは、肝に銘じた方が良さそうです。

からす

独裁的な強権をふるい、圧倒的な存在感で有無を言わさずに下の者を従わせ、物事を強引に現実化させてきた昭和世代の中小企業のワンマン社長の様な人物が、あろう事か教育機関やアマチュアスポーツ団体のトップに未だ君臨し続けている日本アマチュアスポーツ界の実態。

年号が変わる来年に向けて、あるいは《2020年東京オリンピック》に向けて、旧態然とした日本のアマチュアスポーツの体質を解体すべく、独裁的な団体トップの人物のあぶり出しが始まっているようです。

からす

学生時代、部活の勧誘部員に騙され無理矢理に入部させられたあげく、退部を認められずに退学の道を選ばざるを得なかった多くの友人を見て来た僕は、当時から大学のスポーツクラブ(特に武道系)には大きな違和感を持っていました。

更にはそのクラブに代々引き継がれる先輩後輩、OBとの関係性を見るにつけ、反吐が出るほどの嫌悪感を感じ(もちろんそうではない素晴らしい関係性もあるのでしょうが…)、未だに良い印象を持っていません。

大戦に至るまでの日本の軍隊にはびこった、上官には絶対に逆らえない腐りきった縦型構造の異臭(実体験はありませんが)を、僕は学生時代のクラブ活動の現場で、同じように嗅ぎ取った記憶があるのです。

日大アメリカンフットボールの、トップの監督から末端の学生に至るまでの、強固なピラミット構造は、勝利絶対主義と絶対服従の精神を伴った、戦時中の軍隊と全く同様な組織となって暴走を続けていたのでしょう。

からす

スポーツ団体であれ会社組織であれ、政党や宗教の団体であれ、人間が組織を形成した時点で腐敗は始まります。今回大きな問題となっている団体トップの面々などは氷山の一角で、同じような体質の団体指導者は、他にもゴロゴロ存在しているのでしょう。

そのトップで権力を握っている人達がもし、個々の内面の心の動き、《恐怖》《権力》《欲望》が動かす自身の心の在り方を 比較や善悪の物差しを出来る限り排除し、自身の過去、現在、未来を通して、ただただ客観視することが出来たなら…。

ここで思い出すのは、《クリスマスキャロル》の主人公・エベネーザ・スクルージが見た夢。

人生の晩年、今まで生きて来た長い年月の中で人は、強固で明確な《スケール》(物差)を形作ってしまいます。自身の体験を通して、「安全か危険か?」「成功するのか失敗するのか?」「認められるのか蔑まれるのか?」などの沢山の比較検討を通して形成された自身の《スケール》。はたしてこの《スケール》の根本的な形成基準は何なのか?

それは自身が正義や常識と思い込んでいる、自我から噴出された身勝手な分別にあるように思うのです。このブログでも何度も書いているのですが、自身の《正義感》を寸分も疑わない人程、恐ろしい者はありません。

上記の《スケール》の実態は、不確かで身勝手な分別なのです。そしてこの分別の正体は、内面の心《恐怖》《権力》《欲望》の要素が作った、自己保身という自我の現れ。

からす

今話題の団体指導者の歪んだ性格形成は、巨大な権力を手にした者が必然的に陥る道。

人間心理とは本当に恐ろしいもので、暴力や政治の《権力》という物を一旦手にし、その《権力》にひざまずく人達を見たとき、ある種の快感を覚えるもの。これは麻薬的な快感で、その《支配欲》は知らず知らずに肥大化します。

そこから先は、自身の《正義感》の名の下に、絶大な権力を行使し続けてしてしまうのでしょう。これは僕たちにも当てはまることで、これまでに、このような《権力》を持ち得なかったから気付かないだけで、その種は万人の心に潜んでいます。

からす

《クリスマスキャロル》の主人公・エベネーザ・スクルージの元を訊ねた3人の幽霊たちは、《過去》《現在》《未来》に渡って、スクルージの人生をニュートラルな視点から追体験させるような形でその映像を見せます。

その時、スクルージは、自身の《スケール》《自我》のフィルターを通さず、その人生をまざまざと見せられるのです。

小説では感謝、懺悔、改心と言うワードで説明しているのですが、人間が本当に変化出来るキッカケは《気付き》にあるのではないでしょうか? 解剖学者・養老孟司の言葉に「学ぶということは自身が変化すること」というのがありますが、学ぶことは気付くこととするなら《気付き》=《自身の変化》と言えるのではないでしょうか。

この変化は理屈ではなく、遺伝子(魂)のレベルでの変化。したがって《気付き》=《自身の変化》の間の(=)には時間が存在せず、《気付き即変化》という現象が起こるのでしょう。

しかし、しかし、現実はスクルージのように3人の幽霊たちに否応無しに人生を見せられることなどなく、僕たちは生きている間に自力で《過去》《現在》《未来》を俯瞰して見る目を持たないとならない訳で、これはほんとうに至難の業。

人間、大きな傷みを伴わないと自らを省みることなどしません。黒澤明の映画《生きる》のように、がん宣告を受け、余命を宣告される程の衝撃を受けて始めて、人は全存在を賭けて人生を考え始めます。

からす

今話題の団体指導者の方々の窮地は、この《気付き》を体験出来る千載一遇のチャンスだと思われるのです。いま持っている絶大な《権力》のすべてを一旦手放し、歪みきった自身の《スケール》をたたき壊して、自身の人生の《過去》《現在》《未来》を俯瞰する視野を持つことが出来たなら……。

しかし、その可能性は限りなく0に近いのでしょう。人間、歳をとればとる程、握った《権力》が大きければ大きい程、自身の持ってしまった《スケール》《権力》にしがみついてしまいます。

それらを手放すことは、あまりにも自己同一化が進んでいるため自分自身が消滅してしまう感覚を覚えるのでしょう。しかし《気付き》のチャンスは、死ぬか生きるかの瀬戸際で現れるもの。今、この時こそが最後のチャンスなのです。

からす

人ごとではありません。巨大な権力を握っている人達に比べ、それほどに強固ではないにしろ、僕たちはそれなりの《スケール》で世の中を計り、何かしらの《権力》(例えば親から子への、上司から部下への)を行使しているもの。

常に俯瞰した視野を持ち、常に内省しながら生きているつもりでも、生きている限り心には埃が蓄積され視界が曇るもの。こんな屁理屈を垂れ流している僕なんかは未だ《気付き》を体験出来ず、当然のように何の《変化》も起こらないまま、還暦を迎えてしまっている有様。

たとえ3人の幽霊たちに誘導される機会に恵まれたとはいえ、スクルージのように最晩年であるにもかかわらず《気付き》を受け入れる勇気を持てる人は、本当に稀なのでしょう。何とか生きているうちに《気付き》を受け入れる勇気を持ちたいもの。

ももクロも歌っております

「♪逆境こそがチャンスだぜぃ 雨も嵐も さあ来い さあ来い 体を張りまくり」と。

からす

必要のなかった《権力》《権威》《名声》のすべてを投げ捨て、完膚なきまでにタタキ潰される自分をただただ客観的に見つめ、生まれた当時の《0》に戻った時、もしかしたらスクルージのように3人の幽霊たちが《気付き》という宝珠を持って来てくれるのかもしれません。

おしまい