「僕達は未だかつてこれほどまでに、おぞましい笑い声を聞いたことがあったか?」全生物の中で唯一《笑い》という感情を持つ人類。しかし、その《笑い》という《陽》の感情の奥に隠されているのは、《不安》《不信》《嫌悪》《失望》《恐怖》《怒り》《絶望》《破壊》という人間が持ってしまうすべての《陰》の感情。 はたしてこの《笑い》という切り札(ジョーカー)は、《滅亡》への切り札なのか?《救済》への切り札なのか?
物心のついた頃、卓袱台を囲んで食事をしながら家族みんなでNHK《ジェスチャー》という番組を大笑いしながら見ていました。保育園児だった僕は《ジェスチャー》という番組の何処が面白いのかはよくわからなかったのですが、母や父、姉たちの笑い声を聴きながら意味も分からず一緒に笑っていた記憶があります。
ある日、そんな家族の笑い顔を何故か冷めた目で見てしまった時、楽しい空気が支配している場にもかかわらず、とても怖いと思った記憶があったのです。それは僕を含めた家族みんなの無防備な《笑い声 》 と 《 笑い顔 》 の中に、初めて 《 狂気の響き 》 を感じとった瞬間だったのかもしれません。
昔、何かの本で読んだ記憶があるのですが、人間の《笑い顔》の元となる表情は《恐怖》の表情からだと言うもの。 チンパンジーやゴリラなどの霊長類も時に《笑い顔》らしき表情を見せるのですが、これは《恐怖》や《威嚇》等の表情らしいのです。
人類はこの《恐怖》や《威嚇》の表情を穏便なコミニュ二ケーションを成立させるための《笑い顔》という表情に変化させたという説。
映画《イージー・ライダー》の昔から大好きだったジャック・ニコルソンが《ジョーカー》を演じたティム・バートン監督の映画《バットマン》は遠い昔、劇場で観ているのですが、それ以後の《バットマン・シリーズ》をまったく知らず、名作《ダークナイト》さえも観ていないド素人のわたくしなので、映画《ジョーカー》を語る資格はないのですが、鑑賞して既に二か月が経過しているにもかかわらず、主人公アーサーの底知れない暗い笑い声が頭から離れず、皆さまの「遅いわっ!」というツッコミを聞き流しながら、主演のホアキン・フェニックスの凄まじい演技に敬意を表して、今回は主人公アーサーの《笑い声》を脳内再生しながら語ってみようと思うのです。
無茶苦茶長くなりそうな予感…。
ネタバレありありなので、まだ観ていない方は読まないで頂戴ね。
この映画では重要なシーンに数々の往年の名曲が流れます。その歌詞の意味や歌っているシンガーを理解することによって、より深い楽しみ方が出来るように作られているそうです。
なかでも僕が大好きな、チャップリンの名作《モダン・タイムス》のテーマ曲
《 Smile 》
Smile 悲しいとき
Smile 泣きたいとき
君が微笑めば 雲が消え空は晴れるから
Smile 怖くても
Smile 君が微笑めば
世界はうんと明るくなくから
今は 振り向かないで
Smile, 前を向いて歩いていこう
心から笑える日が
きっと来るから
微笑んでおくれ そう Smile
いつだって Smile
どんな時も Smile
そうすれば、どんな人生にも
価値があると思えるから…。
チャップリンの映画ではインストゥメンタルだったのですが、ナット・キグ・コールが歌詞が付いたものを歌って大ヒット。以後沢山のシンガーによって歌い継がれてきたスタンダードナンバー。
この曲がこの映画《ジョーカー》で効果的に流れます。
しかし、ここで流れるどこか刺々しい《スマイル》を歌っているのは、アメリカのコメディアン《ジミー・デュランテ》。その歌声は主人公アーサーの心情にぴったりなのです。歌われている内容と同じように生きようとしてきたアーサーは終始現実に叩き潰れます。本来は心優しかったアーサーの心の叫び《やりきれなさ》《憤り》《あきらめ》《絶望》《怒り》の感情が《スマイル》 の歌声に乗って、スクリーンいっぱいに響き渡ります。
ナット・キグ・コール の歌う 《スマイル》 と聞き比べて頂ければ、監督・ トッド・フィリップス がなぜ ジミー・デュランテ の歌声を選んだのかが、よくわかります。
幼少期から母親に「どんな時も笑っていなさい。そうすれば大丈夫だから。」と、言われ続けて育ったアーサー。
その生い立ちは? 父親は誰なのか? 本当に母親の子供なのか? 戸籍の記述の養子縁組(捨て子)は真実なのか? そして凄まじい幼児虐待の虚実は?
アーサーは、先天性なのか後天性なのかわからない重度の《トゥレット障害》を患っており、7種類の向精神薬を服用しつつ、スタンダップ・コメディアンを夢見て、同居する年老いた母親・ペニーの介護とピエロの仕事を真面目にこなし、懸命に生きています。
この映画の前半は、7種類の向精神薬を常用している《トゥレット障害》のアーサーのフィルターを通した視点で展開されます。 しかし、アーサーが外部の世界や人々と接するときの不安感や恐怖感、そして底知れない疎外感と絶望感だけは、凄まじいリアリティーを伴って僕の心に響いてしまうのです。
アーサーは、母親・ペニーと話しても職場の同僚と話しても、行政のありきたりなカウンセリング(まともに話しを聞いてくれない)を受けても、その境遇を共感しあえることが出来ませんし、アーサー自身その能力も持ち合わせていないのです。
いつものように絶望的なカウンセリングを受け、7種類の向精神薬を貰って帰るバスの中、前の座席に座る黒人の小さな男の子とコミニュケーションを取ろうと、ピエロのパントマイムを見せている所、隣に座る母親に気味悪がられ、いつものように拒絶され、またいつものように《トゥレット障害》(笑う場面ではないにもかかわらず大きな声で笑ってしまう)の発作を起こし、より一層の疎外感と絶望感を感じてしまいます。
この場面は、アーサーが世間と対峙したときの象徴的なシーンとして描かれ、幾度となくこのような《絶対的他者》からの拒絶を繰り返されてきたことを暗示しており、カウンセラーに吐き捨てた
「幸せなど一度もなかった」
「つらいのもうはたくさんだ」
等の言葉は、アーサーのこれまでの人生すべてを物語っているのでしょう。
この発作の、笑いたくないにも関わらず出てしまう悲鳴にも似た《笑い声》と《笑い顔》は、この映画の中で何度も何度も繰り返されます。
その後、アーサーの人生は転がる石の如く転落してゆきます。
ピエロの恰好をしたサンドイッチマンの職も、街の悪ガキどものいたずらで看板を叩き割られ殴る蹴るの暴行を受けた挙句に、首になります。 その時同僚・ランドルに自衛のためと渡された拳銃。 この拳銃が更なる悲劇を次々と呼び起こすのです。
《マルクス・レーニン主義》で理想社会を夢見た《社会主義国家》の幻想は、人間社会の中で最も大切な《人の心》というものが抜け落ちていたため、あっという間に崩れ去ります。 現代社会(ゴッサム・シティ)は格差社会。《支配する側》と《支配される側》、《搾取する側》と《搾取される側》にはっきりと二極化されています。
《支配される側》の中でも最底辺でうごめいているアーサーのような弱者にできる唯一の自己表現こそが《スマイル》だったのでしょうか?
職を奪われ、世の中から徹底的に否定され、拒絶され続けた者の辿る道。
サンドイッチマンを首になったアーサーは、小児病棟でのピエロの仕事を斡旋されます。 しかしここでもトラブルを起こしてしまい(パフォーマンス中、護身用の拳銃をおとしてしまう)、今度はプロダクションから解雇されてしまうのです。 絶望の底に沈むアーサー、ピエロの衣装のまま帰りの地下鉄へ。
ここで乗り込んできたのは、トーマス・ウェイン(搾取する側代表のゴッサム・シティ市長にしてバットマンの父親)の会社のエリート社員3人組。 酔っぱらった3人組は、乗り合わせた若い女性に絡みます。その様子を見ていたアーサー、またしても発作の《笑い声》が車内に響き渡ります。
自分たちが笑われたと逆上した3人組は、アーサーを袋叩きに。自暴自棄の極致、向精神薬の配布も停止され、素のアーサーの心の根源が破壊されたこの瞬間、ついにアーサーは《ジョーカー》に変貌。懐にしのばせていた拳銃を3人組に向かって発砲!
何発も!
何発も!
何発も!
ここから向精神薬の服用のため世の中がぼやけて見えていたアーサーの視座は、完全に《ジョーカー》に乗り移られ、ある意味自己の想念に忠実に行動し妄想し始めるのです。
恋心を抱いていた同じアパートの住人シングルマザーのソフィーを自身の恋人と妄想。 アーサーの中では常にソフィーが傍に寄り添い、励ましてくれます。この辺りから観客は、現実と妄想の狭間で生きる《ジョーカー》の世界に誘われ、最後まで虚か実かわからないままこの物語を見らざるを得ない状況に。
無職となったアーサーは、スタンダップ・コメディアンの登竜門のようなライヴに出演。しかしパフォーマンスの冒頭でまたしても《笑い声》の発作が。ネタそのものも意味不明で静まり返る会場。 その様子を面白がり、TV番組で紹介したのがアーサーの一番のお気に入り番組、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)のトークショー。
あろうことかアーサーを笑いものにさらすため、番組出演を依頼。この流れも事実なのか?妄想なのか?
それでも献身的に母親・ペニーの介護を続けるアーサー。 実は、若いころ市長のトーマス・ウェインの所で働いていたペニー。何度も我が窮状を救ってもらうべく手紙を出しますが返事は来ません。
ある日その手紙の内容を見てしまったアーサー。そこには自分がトーマス・ウェインの息子だという内容が書かれていたのです。
それを確かめるため、アーサーは映画鑑賞中(チャップリンの《モダン・タイムス》)のトーマス・ウェインの所へ。ボーイの変装をして劇場に紛れ込み、トーマスがトイレに行ったところを見計らって直接問いただします。
しかしトーマスは「私はお前の父親なんかではない!」さらに「お前の母親は私の所で働いていたころから気が狂っており、お前はどこからか貰って来た養子だ!」と、言い放ちアーサーを殴り倒します。
「僕はあなたに抱きしめて貰いたかった、他の何もいらない、ただただ抱きしめてほしかっただけなのに!」と、泣きぬれるアーサー。
このくだりも、現実なのかアーサーの妄想なのか? 僕の頭の中では、静かに映画《モダン・タイムス》の挿入歌《スマイル》が鳴り響きます。
自分が養子と言われたアーサーは、それを確かめるべく、当時母親・ペニーが入院していたアーカム州立病院へ。 その記録には母親とは血縁関係はなく、やはり養子で母親も精神疾患を患っていたと記録されており、幼かったアーサーは交際相手の男に虐待され、それが理由で脳に損傷を負ったことが、当時の新聞記事で判明。
衝撃のこの事実は、はたして本当だったのでしょうか?
映画ではこれ以上の説明はなかったのですが、当時から街の有力者だったトーマス・ウェインであれば、自身の不祥事をもみ消し、捏造された記録を州立病院に残すことぐらい出来たはず。また新聞を使って情報操作をすることぐらいは容易かったのではないでしょうか?
僕はやはりアーサーはトーマスとペニーの間に生まれた子供だったと受け取ったのですが、いかがでしょうか?
新たに判明した自身の救いようのない生い立ち。最後の救いの光であった母親の愛さえも消え失せ、母親・ペニーをも殺害してしまいます。更に拳銃を渡された元同僚・ランドルも喉元をハサミで切り裂くという残忍な方法で殺害し、完全な《ジョーカー》に変貌を遂げたアーサーにはもう、失うもの守るものは、かけらも残されてはいませんでした。
さあ、あと残すところは自分を散々に蔑んできた世間に復讐するのみ。 その場所《マレー・フランクリン・ショー》の舞台へ乗り込むため、アパートを出発するジョーカー。
この映画唯一の胸躍るシーン!
ピエロのメイクに真っ赤なスーツを着こなし、絶望の象徴であったアパートの前の長い長い階段を ゲイリー・グリッターのRock ‘n’ Roll (Part 2)のサウンドをバックに踊りながら 意気揚々と降りてくる《ジョーカー》 !
主演・ホアキン・フェニックス 一世一代のパフォーマンス! 痺れました!
自身の芸名を《ジョーカー》と名乗りステージへ登場。そのショーの真っ最中、自分を蔑んできた世間の象徴である司会者マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)を射殺。 全国へ生放送されたこのシーンは、《支配される側》であるゴッサム・シティの大多数の市民を誘発し暴徒化させます。そして 街は大混乱に。
この時、逃げまとうトーマス・ウェイン一家にも被害は及び、トーマス夫妻は暴徒に射殺されます。目の前で両親を殺され、ただ一人残された幼いブルース・ウェイン(将来のバットマン)は呆然と佇みます。
暴徒化したゴッサム・シティの市民に担ぎ上げられた《ジョーカー》。皮肉なことにすべての良心、愛を捨て、自身の感情の赴くままに生き始めた途端、アーサーは大多数の大衆に認められることとなるのです。
はたして大衆は何を望み、どのようなリーダーを求めているのか? 結局、《ジョーカー》は、母親と同じアーカム州立病院へ収容されます。
手錠を嵌められ、ソーシャルワーカーのカウンセリングを受ける《ジョーカー》
自分の人生そのものがジョークだと語っているように聞こえる《ジョーカー》
その後、血塗られた足跡を残し、踊りながら廊下を去ってゆく《ジョーカー》
その時、院内に響き渡った《ジョーカー》の笑い声はすでに発作なんかではなく、世界そのものを笑う本物の笑い声に聴こえたのは、僕だけでしょうか?
僕達が生まれ落ちたこの世界はすべて二元論で成り立っています。この世界で現象は、本来一つだったもの(ゼロ)がプラスとマイナスに分離され、その相克で具現化します。 森羅万象(原子)はプラスとマイナスで成り立っており、人間が五感で世界を認識するにはこのプラスとマイナスを比較しその差異を認識すること以外にないのです。
その表現、伝達、記録の代表的なツールが《言葉》。この《言葉》を使って《思考》し《無限の想像力》でイメージを膨らませ、それを実体験しているのが僕達の人生。
あらゆるものに恵まれ《プラス》に突き進み、その世界を体験する者。あらゆるハンディーを背負い、どこまでも《マイナス》に落ちてゆく者。
そう、人生はいつだって不条理で不公平。しかしながら《プラス》《マイナス》どの境遇にいようが、人間には《無限の想像力》というギフトを誰もが生まれながらに授かっており、その《無限の想像力》の在り様で《バットマン》でも《ジョーカー》にでもなりうるのでしょう。
そう、《バットマン》と《ジョーカー》は表裏一体。何故なら、根源は(ゼロ)から産まれ出た同じものだから…。
今回この映画《ジョーカー》を観終わって感じたことは、僕達にも十分《ジョーカー》になりうる可能性を秘めているということ。世間から微塵も必要とされず、人生の光をすべて遮られた者の辿る道は《ジョーカー》になること以外あるのでしょうか? 昨今の日本における無差別殺人事件、ストーカーによる殺人事件、いじめ、パワハラによる自殺等を見るにあたっても、そう思わざるを得ません。
もちろんこれらの犯人に自業自得の側面は少なからずあるのでしょうが、人は誰でもこの世界から必要とされて産まれてきたはず。さらには「必要とされたい!]という切望を持って産まれてきます。
今日も明日も、あなたにいてほしいと願う人が一人でも存在すれば、たとえそれが幻想であったとしても,そう思える《無限の想像力》を持ってさえいれば、人は生きていけるのではないでしょうか。
豊かになれば、自覚・無自覚にかかわらず、そうでない人たちに対して傲慢になり、蔑み、慈愛を持てなくなるのが人間。 貧しくなれば、卑下し、悲観し、自己否定し、嘆き、内に外に怒りの刃を向けたくなるのも人間。
これらのことは自分自身の心の在りようを贔屓目なしに深く覗けば、誰にだってわかることでしょう。 仏陀の説く《中道》の思想は、どの境遇にあってもその心根は常にニュートラルであれ。浮かれもせず、落ち込むこともなく、その境遇を淡々と受け入れろと説きます。
とは言ってもそのような境地は、日常でのたうち回っている僕にとっては夢のまた夢! 右往左往しながらなんとか生きているのが現状。ただこんな僕にでも唯一出来ることは、好きな物嫌いな物どうでもいい物、好きな人嫌いな人どうでもいい人、すべてに対してその存在をリスペクトする、どんな理由があろうとも、何が何でも、意地でもリスペクトする事。
それさえ心がけていさえすれば、宇宙は僕の存在を許してくれることを信じて。
もし僕の勝手な解釈通り、《バットマン》と《ジョーカー》の二人の父親が、トーマス・ウェインなのであれば、一つの人格の《プラス》《マイナス》の現れとして捉えるのも、あながち間違った解釈ではなさそうです。
同じ《笑い声》《笑顔》でも、ショーカーのような《笑い声》から新生児の《天使の微笑み》まで様々。
僕達はこれまで、どのような《笑い声》《笑顔》で過ごし、これからどのような《笑い声》《笑顔》で過ごしてゆくのでしょうか? これこそ天から与えられたギフト、《無限の想像力》でどのように生きるかを試されている最中なのでしょう。 もっと大げさに言えば、人類が操るこの 《無限の想像力》 いかんで、地球は滅亡するのか救済されるのかが決定づけられるのかもしれません。
監督のトッド・フィリップスは、映画《タクシードライバー》や《キング・オブ・コメディ》等の監督・マーティン・スコセッシの影響を強く受けて制作したと話しているようですが、僕が一番に思い出した映画は、なぜか《真夜中のカーボーイ》。
《ジョーカー》とはずいぶん内容の異なる映画なのですが、鑑賞後に訪れたどうしようもない虚無感、無常感がとてもよく似ていたのです。
この映画《ジョーカー》は、観客一人一人の感じ方によって大きく賛否が別れます。間違っても明日に生きる力や光となる映画ではないのでしょうが、明日を生きる意味を深く感じさせてくれる映画であることは間違いないでしょう。
じつは今回のブログ、鑑賞後すぐに書き始めたのですが、なかなかまとまらず途中で投げ出してしまっていたのですが、ジョーカーの笑い声が頭から離れず、思い直して再挑戦したもの。しかしながら、これだけ長くダラダラと語っても 、うまく掴み切れ無かったようで…。
にもかかわらず最後までお付き合いいただきありがとうございました。
いやーーーーっ、それにしても凄まじい映画でした!
遅ればせながら、
明けましておめでとうございます。
今年も、楽しみに拝見させて頂きます。
返信の最後の1行の、「〜いかがでしょうか?」のお返事です。
私も全く同感です。
まさか、戦争が起ころうとしているなんて…
小学生の頃に、家族と見た《チャップリンの独裁者〉
その中で『1人を殺せば殺人者だが、100万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化される。』
というセリフがずっと心に残っていました。
そして、そのメッセージの本意を知って風刺だと知りました。
そして、こんな言葉も…
『笑いとはすなわち 反抗精神である。』
何となく、「ジョーカー」
に通じるものがありますか?
ヒトラーと比較される彼ですが、まさに1人1人の心の在り方次第で全く違う思想になっていくんですね。
上手に文章に出来ませんが、思いが伝われば幸いです。
60カラスさんの文章は、心に響きます。