《欅坂46》集合的無意識の咆哮! 時代を表現する曲、振り付け、映像美術。制御不能の不協和音は、秋元康の思惑をも越えて。

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個々を動かす集合的無意識の声なき声。集団の匂いと色は、その時々に吹く風によってカメレオンの如く瞬時に変化する。時代を奏でる《不協和音》は、個々の自我を大きく越えて、大音量で鳴り響く!

AKBグループのアイドルをほとんど知らない(知らんのかい!)50過ぎのオッサンなのですが、欅坂46《サイレントマジョリティー》から《不協和音 》にいたるMVが、どうしても耳に残り目に焼き付いてしまうのです。

どうしてこんなに引っかかるのかを検証する意味で、見当違いも沢山あるでしょうが、その辺りはお見逃し頂き、少しの間のおつきあいを。

からす

たった一言の失言「排除します」で、今まで追い風だった時代の風が、強風の迎え風となって吹き荒れた《希望の党》小池百合子の本性は、たった一言の失言で瞬時に暴かれ、その《不協和音》は、《希望の党》党内に留まらず日本全土に《僕は厭だ!》と、響き渡りました。

今回の衆議院解散総選挙は、何もせずして自民党の圧勝となり、今後、安倍政権の一党独裁制は、増々強まる事でしょう。

政治に限らず、あらゆる局面の中、一瞬の読み違いで風向きが大きく変化する現代、僕たちが所属する、小さな集合体(家族、学校、会社、あらゆる業界)でもその傾向は顕著で、蔑む側と蔑まれる側が瞬時に入れ替わる恐怖に晒され、そのストレスとプレッシャーは日に日に増幅されています。

からす

で、欅坂46のお話なのですが…。

《サイレントマジョリティー》から《不協和音 》にいたるMVの発する、怖さ、薄気味悪さ、そして強烈なインパクトは、いったい何なのでしょうか?

《不協和音 》における秋元康の詩は、時代に流されない個のプライドや、生き方の矜持を持つ事の大切さみたいな物を《僕は厭だ!》で表しているのでしょうが、一連のMVを見る限り、そのような自我の叫びではない、もっと大きな生命体の呻き声の《僕は厭だ!》を感じてしまうのです。

からす

時代はアドラーなのでしょうが、ユングの心理分析を借りれば、僕たちは、自分の意思(顕在意識)で意思決定していると思っているのですが、実はその根底に、自身では認識出来ない(潜在意識)の大きな領域があり、その領域の衝動に(顕在意識)は、大きく影響されていると言います。

ここまではフロイトの心理学と同様なのですが、ユングの心理学は、そのさらに根底に、(集団的無意識)が何倍も大きく横たわっていると言うのです。 (集団的無意識)とは、個人が関わっている団体の総合意識の事で、小さくは家族から始まり、学校のクラス、クラブ、学校全体、会社、地域社会、 国家にいたるまでの様々な集合体の事で、その組織の歴史を含め、そこに関わる全員の(潜在意識)からなる団体独自の無意識を差します。

先ほど話した時代の風なんかは、まさに日本国の(集団的無意識)と思えば、解り易いのではないでしょうか。

からす

話を欅坂46に戻しますと、

《不協和音 》で歌われているものは、先ほど書いた時代に流されない個人の意思を守り抜くという《僕は厭だ!》なのですが、そんなもの、AKBグループの欅坂46に所属している時点で秋元康の企みに捕まっている訳で、絵空事でしかありえない事は誰が聴いても明らかな事なのです。飼い犬が何を言ってんだって話なのです。

しかし、作曲で参加しているバグペア、振り付けのTAKAHIRO、映像作家の新宮良平の仕事のフィルターを通してそれが表現された時 、欅坂46の女の子達の(個人的無意識)(集団的無意識)の思惑が複雑に絡み合い、それこそ予定調和では現れない、今の10代の女の子全体(男の子も含む)の、(集団的無意識)の咆哮である《僕は厭だ!》が聴こえてくる様な気がするのです。

それは、個々の(潜在意識)の集合体(欅坂46)からなる、ひとつの(集団的無意識)が、時代の風を受けて、制御不能の《新生命体》として大きくうねり、 その混沌とした方向性の定まらないエネルギーが《僕は厭だ!》《不協和音 》として鳴り響いているように思うのです。

それはあたかも、《地球意識》の総体が善悪を越えた《シン・ゴジラ》となって、日本を荒らしまくったように…。

からす

人間の頭の中は、常に統制不能な相反する思考が言葉となって飛び交っています。これにもっと統制不能な(集団的無意識)からなる思考や言葉が絡まっていったとき、集団の中では、言葉の意味さえ越えた幾種類もの《僕は厭だ!》《不協和音 》として響き渡っているのでしょう。

文頭で書いた《不協和音 》MVが発する、怖さや、薄気味悪さは、この《新生命体》の呻きが原因の一つでったのではないのでしょうか?

不協和音2

秋元康は、「意思を貫け!ここで主張を曲げたら生きてる価値ない」なんて簡単に書いていますが、その前に自分自身の内面を贔屓目なしにしっかり覗けば、自身の(顕在意識)に捕まったまま、社会の(集団的無意識)に翻弄されて生きている事がよく解るのです。

建前と本音がこれほど乖離してしまった今の日本。平和や平等などと唱いながら、超シビアな比較競争原理が支配する学校生活の中で、真の意味での自由や真理を探求する事が、どれほど過酷な作業であるのかを 今の若者は本能的に十分理解しており、そこから無意識にほとばしる魂の叫びが、先ほど書いた《新生命体》の原動力となっているのでしょ う。

からす

《シン・ゴジラ》と同じ様に、その全容はまだ第一形態に留まっており、今後どのような色と形で現れるのか? それは美しいのか醜いのか、救いなのか破壊なのか…。

この《新生命体》の行末を 先ほどのユングの心理分析で考えれば(ここからは僕の勝手な妄想です)、(集団的無意識)の最大級である(地球意識) と溶け合ったその時、第二形態となります。

(地球意識)とは、全人類の想念の総体であり、そのエネルギーの質によってその形は変化するわけで、今後の(地球意識)が何を取捨選択するのかは、人類の想念次第となるのでしょう。もっと先を言えば、全宇宙意思の総体である(宇宙的無意識)との核融合 が、最終形態へのエネルギーとなり、その《新生命体》の顛末は「神のみぞ知る」という事なのでしょう。

からす

とんでもない妄想となってしまいましたが、今の時代のうねりを体現する欅坂46なる《新生命体》が、今後どのように進化あるいは退化していくのかは、 僕には非常に興味深く、目が離せないのです。

このような事や、それ以上の思惑を持って、秋元康《不協和音 》の単純な詩を書き、それによって《欅坂46》という新生命体が、様々な若きクリエーターの力を借りて、どう動き出すのかを演出したのであれば、「妖怪使い・秋元康恐るべし!」ですね。

からす

個の時代から、グループの時代へ。

リーダー不在の今、何でも無い恣意の人々の声なき声の総体の《不協和音 》が、時代を動かす風となりつつある今、その風の流れは、僕たちを何処に連れていくのでしょうか?