相反する二つのジュリーで成り立つ沢田研二。《エンタメ気質》と《芸術家気質》のせめぎあいの中、常人では考えられない程の葛藤を抱えながら、スーパースター・ジュリーは50年歌い続け、生涯、枯草の上を飛びながら、闘い続けてゆくのでしょう。
《ドタキャン騒動》という名の《沢田研二コンサートツアー・一大プロモーション》は、一応の落ち着きを見せつつあります。 僕も前回の記事で「立ちどまるなふりむくな!」を締め言葉として忘れようと思っていたのですが、いかんせん、何時までも納豆のように後を引くネバネバとしたどうしようもない性格のため、モヤモヤ感とやるせない感が胃袋の底のほうに溜まったままなのです。
自宅近くの公園で芸能記者に、誠実に事の経緯を伝え謝罪した後、踵を返して静かに立ち去るその後ろ姿に、スーパースター・沢田研二の孤独を見たとき、ある種の美しさを感じ、脳内で《風は知らない》が鳴り響いたのは、僕だけでしょうか?
遠ざかってゆくブルーグレーのスーツの背中と白髪は、切ないほどに美しい銀色のオーラを放っていました。 見えたわけではなくただ僕がそう感じただけで何の根拠もないのですが、気になったので、銀色のオーラの意味をちょっと調べてみたら、大体こんな 感じ…。
●知的で才能に溢れている
●理想主義者
●プライドが高く、自分にも他人にも厳しい
●強いこだわりを持つ
●常識や流行に迎合しない
●静かで荘厳・カリスマ性が高い
ひゃーーーっ、ピッタリ当たっとる! いくつか調べてみたのですが、ほぼ同様に皆こんな感じでした。そりゃあ生きづらいし、超絶面倒くさいわっ!
まぁ、こんなものは眉唾物で信用できんのですが(なら、調べんなよっ!)、謝罪会見だったにもかかわらず、虚飾をはぎ取った荘厳な気が場を支配しており、百戦錬磨の芸能記者の突っ込みも、いまいち何時もの鋭さに欠けていました。
やはり、汚してはならない領域というものが世の中には確実にあり、人は気配でその領域を感じ取るものなのでしょう。
今回の騒動以来、どうしてもモヤモヤ感ややるせない感が晴れないので、大好きなこの曲を聴きながら、新規ファンの僕なのだけれど、母親(ジュリー狂)の肩越しに見続けたデビュー当時から今に至るまでの、沢田研二の不器用な生き様を考え続けているのですが…。
何時ものようにアホな頭で考えてもわからないので《風は知らない》の岩谷時子の歌詞を借りながら、僕が個人的にそう思いたい今の沢田研二をだらだらと語ってみたいのです。
常人では理解し得ないスター・沢田研二を 常人代表の様な僕が語るほど野暮なことは無いのですが、今回だけは(毎回やん!)許して頂き、しばしの間、お付き合いを…。
今回のツアー《沢田研二70YEARS LIVE『OLD GUYS ROCK』》でも歌ってくれている、タイガース時代の隠れた名曲《風は知らない》。昔の歌はあまり歌わない事で有名なジュリーなのですが、比較的この曲は歌われており、YouTubeでも《変遷史:♪風は知らない》と題して、歌われた時代が様々な《風は知らない》の聴き比べが出来るものを上げてくれています。
風は飛ぶ 枯草の上を
空にある幸せ さがしながら
この歌で擬人化された《風》は今回、スーパースター・沢田研二として考えてみます。
スターとしての星のもとに生まれついたジュリーは、生き馬の目を抜く芸能界という《枯草の上》を飛び出します。
芸能界で活躍し始めた頃のジュリーの目に最初に映った景色は、《一面の花畑》や《青々とした草原》だったのかもしれません、しかし、時を追うごとに、嘘で固められた芸能界の人達の虚飾や欺瞞を感じながら、誤魔化すことが許せないジュリーの目には、徐々に《枯草》に変化していったのでしょう。そこから、50年の長きにわたって、空の彼方にジュリーが描くロックンロールという名のエンターテーメント《幸せ》を探し続けます。
ここでの《風》は、《エンタメ気質》の沢田研二。出来るだけ沢山の人々に、自身のパフォーマンスを楽しんでもらいたい。ジュリー自身の発言にあるように、全盛期はとにかく《一等賞》にこだわり、《レコード売り上げ枚数》にこだわります。
新曲をリリースする限りは、常にヒットを目指すのは今も昔も変わりがないのです。エンターテーメントの目指すところは、広く大衆に受け入れてもらい、十分に楽しんでもらう事。
色々と言われていますが、間違いなくジュリーの中には、この《エンタメ気質》が100%を占めているのです。
風は泣く 大空の胸を
淋しさに 夜更けもめざめながら
今度の《風》は泣きます。自分自身にしかわからない強い《芸術》を模索しながら。
《芸術》は自己の追求。そこには妥協や誤魔化しや嘘は通用しません。孤独なのです。淋しさに夜更けもめざめるほどに…。
大衆が求めるもの、喜ぶものを一切無視し、自身が求める《芸術》にひたすら邁進する、この《芸術家気質》も《エンタメ気質》と同様に、沢田研二の100%を占めているのです。
ここで、スーパースター・ジュリーの中の《芸術家気質》と《エンタメ気質》という二人の沢田研二の相克が生まれます。
きれいな虹に めぐりあう日を
ただ夢見て 雲の波間をさまよう
表現者(生きている限り誰もが表現者)である限り皆、この《芸術家気質》と《エンタメ気質》の両方を併せ持っているのです。
普通、《芸術家気質》の強い人は《エンタメ気質》が薄く、《エンタメ気質》の強い人は《芸術家気質》が薄いというバランスで成り立っているのですが、ジュリーの場合、面倒なことに《エンタメ気質》を100%持ちながら尚且つ、《芸術家気質》も100%併せ持つという、いたって稀な奇人なのです。
エンターテーメントと芸術の要素を同時に100%パフォーマンスで表現する《きれいな虹》という、不可能に近いことに《めぐりあう日》を夢見て、《芸術家気質》と《エンタメ気質》の狭間で大きく揺れ動きながら、世間という常識《雲の波間》と戦いつつ、50年という長い年月を彷徨います。
謝罪の言葉の中の「ブレブレで生きています」の意味は、このことも含まれていると僕は思うのですが…。
今回のツアー《沢田研二70YEARS LIVE『OLD GUYS ROCK』》は、ロックンロールをボーカルとエレキギターのたった二人で表現するという新しい試みで、通常このような実験的で芸術性の高いパフォーマンスは、ライヴハウスか小さなホールで行うもの。
これをエンターテーメントとして、武道館やアリーナで行うところに、沢田研二の特異性を見るのです。そう、ジュリーは今、エンターテーメントと芸術の要素を同時に100%パフォーマンスで表現する試みに挑戦している最中なのです。ジュリーが50年追い求め続けた《きれいな虹》にめぐりあうために。
昨日鳴る 鐘も明日はない
大空の広さを 風は知らない
若者の多くは《きれいな虹》という不可能に挑んでゆき、世間や常識、そして日々の生活に敗れながら、徐々に分別や忖度を身に着け、現実の厳しさに疲れ果て、過去《昨日》と未来《明日》にしか生きることが出来なくなります。しかし《昨日鳴る鐘も明日はない》のです。
本当の意味で生きるということは、今、この一瞬でしかありえないのです。
ロックンロールは、《昨日》でも《明日》でもなく、《今日》この瞬間を分別や忖度なく生き抜くこと。この美しさこそがロックンロールであり芸術なのでしょう。
ジュリーが昔の曲ではなく、今現在の曲とパフォーマンスを見てほしいと願うのは、ここにあるのではないでしょうか? そう、ロックンロールとは過去を回想することではなく、今、この瞬間を表現し生き抜くことにあるのです。
先日亡くなられた樹木希林が生前、「内田裕也は美しい」と言った意味が、上記のことと同じような意味だと僕は解釈するのですが、ジュリーも同じような意味で美しいのでしょう。
齢70にもなりながらこの美しさを保っていることに、改めて驚愕するのです。
そしてここでいう《大空の広さ》とは《宇宙の広さ》を指します。
本当の意味で僕たちは、宇宙《大空》の広さを知りません。大気圏の内側で守られながら日々を暮らしている僕たちは、どうして《芸能》や《芸術》を必要とするのか? そう、その《宇宙の広さ》を時々垣間見せてくれるから。 大気圏の外の危険な領域に身をもって踏み出し、まだ見ぬその世界の景色を僕たちに垣間見せてくれる人たちを 昔は芸能人や芸術家と呼んだのです。
《風》さえも知らない《大空の広さ》を体現する領域にさしかかっている、類稀な芸能人《風》が、いまのジュリーなのです。
それを理解し得ない大衆《雲》が、その特異な《風》を笑います。
これからもジュリー《風》は、エンターテナーと芸術の狭間を漂いながら、《きれいな虹》にめぐりあうために、世間という常識《雲の波間》と戦いつつ突き進んでゆこことでしょう。
全国に情熱の赤い旗を立てながらジュリー《風》は、見たこともないような美しい《大空》の景色を 僕たちにロックンロールというパフォーマンスで垣間見せてくれるはず。
そう、その景色はもうすぐそこに…。