ドラマ《過保護のカホコ》に見る、高畑充希の異次元の演技。「なんなんだ?この眼は!」

過保護のカホコ

現在放映中の水曜ドラマ《過保護のカホコ》は、ドラマの内容としては未だ何とも言えないのですが、主演・高畑充希の演技の、視聴者を有無を言わさず引き込む力が、尋常ではないのです。

眼なんです。

眼こそが人の感情を解き放つ、唯一の窓なのです。

からす

素晴らしい役者さんのほとんどが眼で殺すのです。

セリフに感情が乗るのではなく、まず胸の奥底に感情の発露があり、そのエネルギーがダイレ クトに眼の窓から放たれたと同時に、こらえきれず態度や言葉となって身体表現やセリフとして観客に届くのです。

ド素人が偉そうなことを言っておりますが、実生活の中でも相手に伝える為、事前に用意した言葉や理屈は上手く伝わらずに、相手と対峙したり、話したりした時、あまり意識せずに、おもわず言ってしまった言葉や態度(その善し悪しは別にして)は、その裏にある感情までも乗せて、ダイレクトに伝わってしまったという経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか?

からす

喜怒哀楽の感情が動く時、正確には、まずその人のまとっている《気》(ケハイ、オーラとも言う)の波動が瞬時に変化します。敏感な方は眼光の変化と共に、その気を強く感じるようですが、何となく馬が合う合わないといった感覚もそれに近いものでしょう。

演劇の舞台での役者さんや、小さなライヴハウスのステージで歌ってる歌い手さんを生で見ているとよくわかるのですが、素晴らしい演者ほど、 その気と眼光の変化がありありと伝わってくるものです。

カラス

小さなテレビの中からそのような《気》や眼光の変化が、大きく伝わってくることは稀なのですが、《過保護のカホコ》の主演・高畑充希の演技は、見る側の感情を《共鳴》させる溢れんばかりの魅力を その小さな身体から、瞬時に放つのです。

《共感》(笑ったり泣いたり)は比較的よくあることなのですが、《共鳴》は自分の意思に関係 なく瞬時に襲ってくるので、不意をつかれてしまうのです。

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第四話まで放映されたドラマ《過保護のカホコ》なのですが、純粋培養のビニールハウスのような環境で育てられた主人公・加穂子が、その保護圏の外の世界(ドラマでは街に引かれた赤いハートマークのライン外)に触れてゆくことによって成長して行き、それ以上に病的なほどに過保護なママや、気が弱く意思表示の苦手なパパが、過保護のカホコの成長と共に変化してゆく様が描かれております。

同じ大学の苦学生の画家志望、麦野初(竹内涼真)との出逢いによって、加穂子が生身で世間の厳しさと、素晴らしさを体験してゆくのですが、逆に麦野初加穂子を通して自身の不幸な境遇によって、忘れかけていた純粋な感受性を取り戻してゆくというストーリー。

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《家政婦のミタ》の脚本家・遊川和彦の作品(ゴメンナサイ、知りませんでした)で、ドラマそのものは新手のホームドラマのような仕上がりです。 演出的には、優柔不断のパパ目線(ナレーションも)で進んで行き、登場人物を動物化(パパの妄想)したCGを入れ込んだり、街の風景に過保護圏内の赤いラインを入れたりと、新しい試みを展開しています。

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相手役の竹内涼真は、朝ドラ・《ひよっこ》でも有村架純の相手役を演じており、コチラは真逆の、いいとこのボンボンの大学生で、演技の幅をアピールする意味でも、いい仕事をしていますねぇ。

「この人絶対売れるよねぇーっ」と、かみさんに語った所、

「既にメチャクチャ売れてますッ!」と、何故か半分キレ気味で返されました。

ママ役の黒木瞳の演技も面白く、時々垣間見せる狂気の眼は、この女優さんの本性を現しているようで異常に怖いのです。

「この人怖いよねぇーっ」と、かみさんに語った所、

「当たり前やん、宝塚でどんだけ修羅場くぐっとると思っとるんッ!」と、同じく半分キレ気味で 返されました。

パパ役の時任三郎も、新境地の気の弱い情けない男性を好演しておるのですが、残念なことにギャグの間が、少しズレているように思えるのです。

「間がちょっとズレているよねぇーっ」と、かみさんに語った所、スルーされた(よくあること)ので、興味が無かったのでしょう。

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最後に主演の高畑充希

デビュー当時から、舞台《ピーターパン》を演じる等、ミュージカルで徹底的に鍛え上げれられたその実力は、歌、ダンス、演技共に折り紙付きで、 高く評価されていました。

僕が最初に印象に残った演技は、ドラマ『問題のあるレストラン』での恋愛依存症のいやな女役で、非常にリアルなお芝居をしていました。そしてご存知、朝ドラ《とと姉ちゃん》に大抜擢。しかし役柄上、本来の能力を発揮することが難しく、僕的にはイマイチな印象でした。

で、満を持して望んだ民放・初主演ドラマが《過保護のカホコ》という訳なのです。

からす

脚本的には今の所、主人公・加穂子は、過保護に育てられてはいるものの、正常な女の子として描かれていますが、高畑充希の演技が、その体型と相まって、多少、発達障害児寄りに見えてしまい、それは物語上良いのか悪いのか解らないのです。

演出家や高畑充希本人も、あえてそうしているふしがあり、狙ってやっているはずなのですが…。

からす

人間の本性を性善説として受け取るなら、人が本来持っている感受性や審美眼には、本物(真理)を見抜く能力が備わっているということでしょう。

第四話で加穂子が、相手役・から「あしたまた逢おう」とかけられた言葉に、その本物の言葉(気持ち)に「あしたまた逢ってくれる人がいる」「自分がこの世にいても良いと認めてくれる人がいる」と、心の底から幸せを感じた瞬間の表情が、

この記事のイラストの眼の表情なのです。

一点の曇りの無い心で、純粋に人を見つめたときの眼は「このような眼なんだ!」と断言出来る程に美しい眼だったのです。

加穂子に限らず、誰もがたったひとりでも良いから、「あしたまた逢おう」と声をかけてくれる人を捜しているのでしょう。その言葉を魂で受け取り、大切に思えるか否かで、人の幸、不幸が、決ってくるのではないでしょうか?

必然的に、明日も明後日も明々後日も逢えてしまう、かみさんが側にいることの喜びをかみしめまして…。

終です。

おしまい