あぁ麗しの昭和歌謡曲⑤ 沢田研二《君をのせて》 時代と共に変化してきた《君》。そして今のジュリーにとっての《君》とは何か?

君をのせて

言わずと知れた、沢田研二のソロデビュー曲。美しいストリングスのアレンジは、当時の昭和歌謡曲のなかでもひときわ美しく、ミュージカル的で、スケールの大きな多面性を持った楽曲でした。それほどヒットはしなかったのですが。僕の中では、ピーナッツ《恋のバカンス》と並んで、宮川泰・岩谷時子コンビの最高傑作なのです。

少し前、ドラマ《anone》の記事で、田中裕子のイラストを描いている際、突然脳内で鳴りだしたのはジュリー《銀の骨》だったのですが、その後なぜか《君をのせて》に移行していき、いまだに鳴り続けております。

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今は亡き母親がジュリーの大ファンだった反動で、子供の頃は、あまりジュリーが好きではなかったのですが、この《君をのせて》だけは大好きで、当時大流行していたラジカセのカセットテープに録音してまで聴いていたものです。

1970年、大阪の万国博覧会が大々的に開催され、太陽の塔や月の石を一目見ようと、世界中の国々から大勢の人々が開催地大阪に足を運びます。三波春夫「♪こんにちわ〜っこんにちわ〜っ、西の国からぁ〜」の歌声が全国に響き渡り、日本中が沸騰していた頃、北九州の薄汚れた工業地帯の端っこで暮らしていた僕は、見に行くことの出来ない僻も手伝って、そのお祭り騒ぎの浮かれた明るさに乗れない日々を過ごしていたのです。

アホで能天気だった僕なのですが、この頃何故か、生まれて初めて厭世的な気分を感じ始め、1971年その雰囲気のまま中学校に入学します。時同じくして、沢田研二(ジュリー)もタイガース解散後、PYGに参加するも1年も持たずPYGは消滅。

その直後のソロデビュー曲が、《君をのせて》だったのです。

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大きな野望や、明確な目的を持ったものではなく、流れの中で何となく新しい世界に入り、漠然とした不安や戸惑いを感じながらの旅立ちの歌。翌年の1972年2月、今度は札幌で冬季オリンピックが開催されます。

同じ頃、僕の父親が、末期がん(余命半年)と診断されます。今思えば一年前からの僕の心の中の厭世感は、その予兆だったのでしょう。

札幌冬季オリンピック・テーマソングは、トワ ・エ・モワ《虹と雪のバラード》で、大変美しい、未来に夢と希望を馳せた前向きな曲で、大好きな曲だったのだけれど、そのメロディーは泣きたくなるほどせつないもの。トワ ・エ・モワの暗いイメージと相まって、勝てる望みのない闘病を続ける父親を見守る僕の家族にとっては、とても、未来に夢と希望を馳せた前向きな曲とは受け取れませんでした。

その年の7月に父親は亡くなります。今まで、無くなるはずのない絶対的なものと信じていた家族の柱を失ってしまうのです。長女は嫁いでいたものの、三人の子供を抱えて未亡人となってしまった人一倍心配性の母親は、不安で押しつぶされそうだったことでしょう。

このような背景の中、母親と僕は、ジュリーのデビュー曲《君をのせて》を繰り返し聞いていたのです。

この曲の歌詞を当時どれほど理解していたのかは、僕自身記憶にないのですが、年を重ねるごとに受け取り方が変わっていき、今現在の理解に至るのです。

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ここで野暮を承知で、歌詞の意味や解釈を試みたいのですが、あくまで僕の主観であり見当違いも沢山あろうかと思いますが、そこは笑い飛ばしていただいて、暫しの間、おつきあいを(ちょっと長くなるかも…)。

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まず、当時のジュリーの芸能界においての立ち位置も非常に微妙で、満を持しての前向きなソロデビューなんかではなく、おおきな不安を抱えたままのソロデビューであったはず。

何の準備もなく一人ボッチで大海に放り出された様な心の有り様はテレビ画面からも感じられ、《君をのせて》の歌のイメージが、その内容以上にせつなくも哀しいものに聴こえたのは、そんな背景があったからなのでしょう(大きな支えをなくした当時の母や僕の心象風景 とぴったりシンクロしていたのでしょう)。

それでは最初のフレーズから。

風に向かいながら 皮の靴をはいて

イントロのストリングスがミュージカルのように壮大で美しすぎて……、そんな大きな未知の世界が待ち構えています。やはりそこは向かい風。嵐の様な強風ではなく、不穏な感じの冷たい風が吹きすさびます。 《革の靴》の意味が子供の頃はよく解りませんでした。「もっと歩き易い靴のほうが良いのに。」と、漠然と思っていたのですが、今思うと、これはある種の比喩なのでしょう。「気持ちをしっかり入れ替えて」「自立心を持って」「大人として」「世間に対峙する強い心を持って」なんかそのような小さな覚悟に聴こえてきます。

肩と肩をぶつけながら 遠い道を歩く

はい、一人ではないのですね、道連れがおります。誰か? 恋人?友達?同志? もしかしたら、もう一人の自分(プラスとマイナスをぶつけながら進む成長の過程)? いずれにしても近い距離感で、わかり合えたり、わかり合えなかったりを繰り返しながら、到着点のない目的を持たない、あるいは持てない旅を歩きます。

僕の地図はやぶれ くれる人もいない

「大事な地図を破るんじゃない!」と当時は思っていたのです。 今までの経験則や知識は通用しない未知なる世界。そこにはマニュアルは存在しないし導いてくれる先達もいません。そんな世界に否応なく投げ出されるのです。

だから僕ら肩を抱いて 二人だけで歩く

その世界では、今まで抱え込んでいた価値観の一切を捨て去り、自分たちだけの新たな物差し(スケール)を必要とします。 世間の価値観に迎合せず、 ニュートラルな状態に戻し、真っ白な心で、互いに共鳴、共振しながら歩き続けます。当時のジュリーの歌唱の中では、不安に押しつぶされそうなもう一人の自分と共に、という意味の《二人》を表現していると解釈したいのですが…、作詞家・岩谷時子は、この《二人》をどういう意味合いで書いたのでしょうか?

君の心ふさぐ時には 粋な粋な歌をうたい

岩谷時子は、物事は理論や理屈では解決し得ないと理解しており、心がふさぐことの理由を探す事より、まず、そんな事忘れるくらいの幸せの風を理屈抜きで吹かせようと、粋な粋な歌を歌わせるのです。 井上陽水「♪探し物はなんですかぁ〜」のあれですね。その後、稀代のエンターテナーとして大活躍するジュリーを暗示しているかのようです。 そう、エンターテナーとしてのジュリーは底抜けに明るくないといけません。

あぁ 君をのせて夜の海を 渡る船になろう

ここでの《君》は、恋人、友達、もう一人の不安な自分のすべてが含まれており、その一切を乗せて、今度はもっと大きくて先の見えない、危険な夜の海に旅立ちます。それらを乗せて渡る舟とは? それは《覚悟》と言う名の舟なのでしょう。

ここでジュリー《覚悟》を決めます。その《覚悟》の 舟は自分たちの力で漕いで行く、小さな舟なのでしょう。

“ここで美しいストリングスの間奏に入ります。その《覚悟》の小さな舟で、大海原を航海する様子が現れ、時間の経過を感じ取れます”

人の言葉、夢のむなしさ どうせどうせ知った時には

その時間の流れの中で、《人の言葉》《夢》の現す意味を理解した時、目的達成や夢の成就には限りがなく、そんなものは幻想でしかないと悟ります。

あぁ 君をのせて夜の海を 渡る船になろう

そう、このあてどない航海の最中、この瞬間のこの動きこそが、すべての意味である事を感じます。羅針盤はなく、頼りになるのは…。

人の言葉

音の書2

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転調 》ここでダイナミックに転調し、意味をもたない、なぜか明るい「♪ラララ、ラララ、ラララ」のスキャットが流れます。 さすが宮川泰!「僕の作品の中で、一番理想的な流行歌。」と言っていただけのことはある。

ジュリー《覚悟》は、この転調で次元を越え、天に繋がる大きな御舟となるのです

あぁ 君をのせて夜の海を 渡る船になろう

あぁ 君をのせて夜の海を 渡る船になろう

そして、最後に歌われる《君》とは、すべてのファンのことであり、これから始まる大航海、スーパースター・沢田研二丸の大船に乗り込んで、きらびやかなエンターテーメント世界を共に体験して行くのです。

そう、羅針盤は、沢山のファンだったのです。ここからスーパーアイドル・ジュリーとして、 日本中に救いの光を放ち続けます。 僕も今気づいたのですが、この歌はソロデビューした当時のジュリーの背景や立ち位置、そしていまから日本の歌謡界を担うであろうジュリーの未来までも暗示したもの。これほどドンピシャの曲はなかったのですね。

恐るべし、岩谷時子!そして宮川泰

当時、父親を亡くした、一番多感な13才の僕が、何故あれほどこの曲を聴いていたのか、今何となくわかったような気がします。当時、詩の意味等は、到底理解し得なかったのですが、感覚的に共感を覚えており、僕自身も多少なりとも将来に向かっての《覚悟》みたいなものが芽生えていたのでしょう (そのわりには、未だこのテイタラク)。

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時は流れ、ジュリーの御舟は七つの海を航海し、最後に最愛の伴侶、田中裕子の港に行き着きます。ここで再び《君をのせて》が違う意味を込めて歌われるのです。

今度はあくまで人間・沢田研二《覚悟》の歌として。 《君をのせて》《君》田中裕子になったと感じた多くのファンは、此処で一旦、ジュリーの御舟を降りたのでしょう。ピーナッツ伊藤エミの時は、 降りなかったのに…(何となくわかるのですが……、書くの止めときます)。

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ここから、ジュリーにとっては始めての長い不遇の時代が続くのです。自身の心に嘘をつけず、人間・沢田研二としての《覚悟》を選んだジュリー。しかし不遇の時代こそ、何を思い、何をするのかが、その後の人生の決め手となるのです。

ジュリー自身も言っています。「この時期、腐らずにコツコツと努力をして来たんです、頑張ったんです僕は、自慢ですけど。」 と。

その努力を携えて、2008年、還暦になったジュリーは勝負に出ます。京セラドーム、東京ドームの還暦記念二大ドームコンサートを《人間60年・ジュリー祭り》 と銘打って開催。これまでの集大成・80曲をフルバージョンで歌いきります。僕は、BSでの放映をたまたま自宅でみてしまい、それまであまり好きではなかったジュリーなのですが、この時の円熟した魅力と熟練の歌唱力に胸を打たれ、「ジュリー、す、すごいやん!」と、唸る事になるのです。

この放映で久々に聴いた《君をのせて》。ここで《君》の意味が三たび変わります。《ファン》から《田中裕子》になり、そしてここでは、《ファンを含めたすべての人間》という普遍的なものとなって帰って来るのです。

そうなると当然のようにその視野は、日本や世界の現状に向かいます。そう、 必然的に反原発、反戦のような社会性を帯びたメッセージを発するようになるのです。

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《君をのせて》という歌を通して、僕個人が感じた《ファンタジー》は、これで終りなのですが、やはり名曲は受け手によって様々な色や光を放つようです。僕とはまったく異なる色や光を感じている方もおられるでしょう。

名曲《君をのせて》は、時代を越えて、作詞家・岩谷時子の思惑をも大きく越えて、今もそれぞれの人の心の中で、それぞれの《君》をのせて、生き続けているのでしょう。

からす

最後に。

デビュー当時、テレビでジュリーが歌っていた《君をのせて》の最後のフレーズ「♪あ〜ぁ 君をのせて」「♪君を」の所、途中から二回歌うようになったの覚えていますかぁ皆さん(レコード録音は一回なのに)!

ここを二回歌うと《君》が小さなものになってしまうのでダメなんですよぉーっ!《人間60年・ジュリー祭り》 では、もとに戻っていたので一安心。 え? どうでも良い? そうですね、どうでも良いですよね、なんかスミマセンでした…。

おしまい