関西パンクミュージックの風雲児《町田町蔵》。日本文壇の異端児《町田康》。なにをやっても、そのジャンルを根底から 引っ掻き回し、異様な色気や狂気を放ちまくる!

町田康

《パンクミュージック》という武器を手に、常識や世間体という名の黒い塊を手当たり次第破壊(自身も含め)し続け、その後《小説》という武器に持ち替え、言葉の持つ可能性と限界を模索し続ける、生粋のパンクロッカー

日本のロックミュージックに疎いもので、町田康を知ったのは小説家としてのデビュー作『くっすん大黒』を読んだ時でした。

からす

この小説はストーリーがあってないような、ぐうたらな主人公のどうでも良い日常をダラダラと綴り、最後に「俺は豆屋になろう」と意味不明の宣言をして終わるという、初期の筒井康隆を彷彿させる程の、どこまでもパンクでファンキー な物語なのです。

その独特の文体とユーモア、そしてミュージシャンならではのリズム感は、一度ハマると病みつきになるほど麻薬性が強く、 その後何冊も読んでしまいました。

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元パンクロッカーと知って、その音楽を聴いてみると、これがまた最高でして、遅ればせながらこちらもハマり込んでしまったのでした。ステージ上の町田町蔵のビジュアルと歌声は最高に艶っぽく、狂気を帯びたその眼力は、ただ者ではありません。作詞は町田町蔵のもので、その言葉のセレクトとセンスは抜群で、意味よりも音の気持ちよさと音の力を強調しており、トランス状態に誘うマントラ(真言)のようです。

個人的には「町田康+北澤組」の音楽とアルバム《犬とチャーハンのすきま》がおススメ。

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で、問題は小説の最高傑作《告白》なのです。

同じ名前の小説に湊かなえの《告白》もあり(こちらの方がメジャーですが)、この小説も大変面白かったのですが、町田康の《告白》は、もう大、大、大傑作で、これはもう本当に最高に凄いです(ちゃんと説明せーよ!)。

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河内音頭で有名な物語で、明治時代、大阪の赤坂分水村で実際に起こった殺人事件《河内十人斬り》を題材にしたもので、 主人公、城戸熊太郎の生涯を綴った長編小説なのです。

根底に流れるテーマは『自分と世界との(人や自然すべてを含む)コミニュケーションは本当に可能なのか?』『言葉はコミニュケ−ションツールとして本当に機能しているのか』『正常と異常とは何か?』等。

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人として存在する事の意味や目的を常時思考してしまい、人一倍思弁的な性格の持ち主であるにも拘わらず、言葉で表現することや、意思の疎通の苦手な主人公、城戸熊太郎の戸惑いや葛藤は、まさに現代に生きる僕らにも通じる普遍的なものがあるのです。

人は生まれて自我(本当はこんな物は無いのでしょうが)が形成される以前に、ここに自分は存在しているという《意識》そ のものがある訳で、この《意識》を真に認識する為(よくわからんなぁ)に、世界との様々なコミニュケーションをはかって、 多くは玉砕してしまうのでしょう。

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言葉にする以前の、圧倒的リアリティーな現象や想いが、どうしても伝わらないもどかしさを感じたり、また自分自身、他者からの言葉の伝達だけでは感覚的に理解出来なかったりする経験は誰にもあるはずで、 それをキャッチする感覚は、人が本来持っている五感以外の何かの器官なのでしょう。

からす

その器官を刺激する役割が、様々な芸術や、天職となった日々の労働なのでしょうが、 生涯それを持ち得なかった《告白》の主人公、城戸熊太郎は、物語の最後に「あかんかった」という言葉を残して自害してしまいます。

博打打ちでヤクザものの、どうしょうもない城戸熊太郎なのですが、そうであるからこそあらゆる権威や、常識の虚飾をはぎ取られ、素っ裸で世間と対峙する事となったのでしょう。

仮に、それに耐えうる強靭な精神力があったとしたら、もしか したら《真理》なる物を垣間みることが出来たのかもしれません。

からす

ちょっとネタバレしてしまった感はあるのですが、 音楽も小説も生き様も本当に素晴らしすぎる町田康なのでした。

おしまい