祝! 2018.3.11 沢田研二・ニューシングルリリース! スーパースター・ジュリーの今と昔に想いを馳せて……。 

ジュリーCD

去年、大変な盛り上がりを見せた《沢田研二50周年記念LIVE》。そして今年、古希を迎えたジュリーの勢いはとどまることを知らず、2018.3.11 ニューシングルをリリース。さらに今年も7月から来年1月にかけて、全国縦断ツアーが大々的に開催されます。そしてたまたま見つけた、44年前の1974年に行なわれた《JULIE ROCK’N TOUR’74》全国縦断ツアーのチケットとスナップ写真を眺めながら、スーパースター・ジュリーの今と昔に想いを馳せて。

ジュリーチケット

久しぶりに姉の家に寄り、母とジュリーの昔話をしていた所、姉のアルバムに44年前に開催されたジュリーのコンサートチケットと、その時のジュリーの楽屋入りの写真や、母や姉達のスナップ写真を見つけてしまったのです。

そこで、姉の話と僕の遠い記憶をたよりに当時のお話を少し。

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僕が高校入学後の初めての夏休み、《ジュリー教》伝道師の母とそのパシリの信者・約二名(姉①姉②)は、密かに《ジュリーコンサート四国遠征計画》を企てていたのです。

夫が亡くなって傷心の母は、さすがに一年間は喪に服しており、《ジュリー教》の活動は控えておったのですが、喪が明けて少したった頃、何時までも落ち込んではいられないと、再びその活動を活発化させます。

そして一年間ほど購入を控えていたジュリー芸能活動の情報源、雑誌《明星》《平凡》の定期購読を復活させるのです。 当時は雑誌の巻末の片隅に、《ファン交流コーナー》なるものがあり、そこで《ジュリー教》伝道師(母)は、地道に布教活動を行っていたそうです。

その中の一人に、沢田研二ファンクラブ・四国支部長のOさんがおられ、とても親しくなり文通を重ねていたそう。今でこそジャニーズ等のアイドルのファン層は広がっており50〜60歳の女性も沢山おられますが、当時のファンは若い女の子ばかり。伝道師(母)は50歳前後の年齢で、ちょっと異質の存在だったのですが、四国支部長のOさんとは世代も近く、すぐに意気投合。

その息子さんがたまたま北九州の大学に通っており、伝道師(母)はその息子さんを頻繁に我が家に招き、ごちそうを振る舞っていたのです。 その上、美人かどうかは別にして二十歳そこそこのピチピチの信者約二名(姉①姉②)に手厚い接待をさせていたのです。

策士で計算高き伝道師(母)は、何の企みなしにはそんなことは致しません。

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そしていよいよ、その種まきの収穫祭が行なわれます。そう、秘密裏に計画されていた《四国・松山市民会館・沢田研二コンサート遠征計画》実行の時を迎えるのです。

僕の伺い知らぬ所で着々と進められていたこの計画は、夏休みに入った7月下旬、いきなり母から告げられます。

母    あんた、夏休みは部活やろ?

僕    うん。

母    あたし達、8月1日から三日間、四国の松山に行ってくるけ。

僕    あたし達? 松山?

母    姉ちゃん達と三人で行くと。

僕    なんしに?

母    道後温泉につかりに行くと。

僕    嘘つけ! どうせまた、ジュリーの何かなんやろ!

母    い、いや、道後温泉に旅行に行こうち思いよったら、たまたま四国のOさんが「ジュリーのコンサートがあるけ、ついでに見ていったら?」 ち、誘ってくれたんよ。

僕    たまたまぁ? ついでに見ていったらぁ? 嘘つけ!100%ジュリーのコンサート目的やろーが! そんで、「そしたら、ついでやけ道後温泉にでも行ってみようか」やろ!

母    そ、そんなことはどうでもいいやん…。と、とにかく三日間おらんけ、悪いことせんでおとなしくしときよ。

僕    うるさいわっ!  悪いこといっぱいしちゃる!

さすがに、父親が亡くなって2年程、以前のように「何が悪いのよ」的な態度もとれず、僕に対して多少の後ろめたさを感じていたのでしょう。母にしては弱気な宣戦布告(しかし、いざ開戦すると怒濤のような暴れっぷり!)。

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と言う訳で、パシリの信者・約二名(姉①姉②)を引き連れて、《ジュリー教》伝道師(母)一行は、お大師様(四国八十八カ所)なんぞ目もくれず、ジュリー教祖様の御姿だけを拝みに、四国松山へいざ出発。

四国では、Oさんの息子さんに対する姉達を使った接待が実り、四国支部長のOさんは、至れり尽くせりのもてなしよう。本当に良くしてくれたそうです。

とにかく間直でジュリーを見せてあげようと、あらゆる策を講じてくれたそう。

まずはジュリーの楽屋入りの時間をキッチリ調べ上げ、何時何分頃、ここに車を止め、このルートを通って楽屋入りするからと、良い写真を撮れるベストポジションを確保してくれます。伝道師(母)は、こんな強気の性格のクセに人前に出て目立つのが大の苦手で、パシリの信者・約二名(姉①姉②)に逐一指令をだします。

自分は動かず、式神を操るが如く姉達二人を思うように動かすのです(安倍晴明か!)。

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いよいよジュリーの楽屋入り。伝道師(母)の指令通り、ジュリーを挟むようにして姉①姉②は、歩きながら写真撮影をお願いします。しかし、そこはいつ何時も塩対応の沢田研二、一ミリたりともぶれません。いっさい無視して完全スルー。

ジュ、ジュリィーーーーーーーーーーーッ(泣)!

最後に、姉①がかろうじてその横顔を写真に収めます。

それが《ピンぼけ写真①》

ジュリー横顔

その一部始終をしっかり見ながら十メートルほど遅れてやって来た、キーボードの大野克夫さん。姉①姉②は、ジュリーがダメならと、大野克夫でもいいや的に写真撮影をお願いします。

こんな失礼なファンにも、にこやかに一緒に写真に収まってくれた心優しき大野克夫さん。

《ピンぼけ写真②》

写真②-1

え、ちゅうことはこの写真、母ちゃんが撮ったと?と姉に聞くと、どうもそうらしいのです。両脇で手を組むポーズを演出したのも母で、伝道師(母)渾身の一枚なのでした(大野克夫さんだけど…)。

※姉から肖像権の侵害で慰謝料を取るとのクレーム(嘘)が入ったので、顔はぼかしています。

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そして開場までの空き時間に皆で撮った記念写真がこれ。

《ピンぼけ写真③》

記念写真

機材を運ぶトラックの前で。トラックに書かれた《渡辺プロダクション》のロゴをしっかり入れたアングルも、これまた伝道師(母)の指示のもと。

しかし、その髪型と服装が時代を感じます(スリーピースのパンタロンスーツ、流行っとったなぁ)。

※あの世の母から、顔出したら呪い殺すとのクレーム(嘘)が入ったので、顔はぼかしています。

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で、いよいよ《JULIE ROCK’N TOUR’74》松山市民会館の開演となる訳です。 

1974年のジュリーは、ソロデビューから3年、《許されない愛》《 危険な二人》《追憶》など、次々に大ヒットを飛ばし、押しも押されぬ、歌謡界のスーパーアイドルとして飛ぶ鳥を落とす勢い。チケットもプラチナチケットで、なかなか取れない状況でした。

が、しかーし、そこは天下の《沢田研二ファンクラブ・四国支部長》のOさん、その政治力を遺憾なく発揮してくれ、驚くような良席を用意してくれたのです。そのチケットがこれ。

《チケット①②》

チケット1

チケット2

さすがジュリーの全盛期、チケットも凝っていてカッコイイ! 今のプリンターで発券された無味乾燥なチケットと比べると、夢が膨らみます。

そんな事よりも、その座席番号! な、なんと最前列ど真ん中の砂かぶり席! 一日二回公演の二回とも同じような良席で、母としては天にも昇る気持ちでのライヴ鑑賞だったことでしょう。姉の話では、ジュリーのツバや汗まで飛んで来たと、嘘か本当かわからんことを言っておりました。

で、当時のジュリーのコンサートは、最後の曲の時(何の曲か不明)、客席に向かって真珠玉(イミテーション)を投げていたらしいのです。ご存知のかたもいらっしゃることでしょうが、これを会場のファンが我先に拾う阿鼻叫喚の争奪戦が展開されたそう。それはそれは凄まじい光景。伝道師(母)の指示のもと、パシリの信者・約二名(姉①姉②)も、母にどやされながら必死になってその真珠玉を拾ったそう。

今だったら危険過ぎてありえないお話、良い時代だったのですね。

「これを財布の中に何粒か忍ばせておくと、その財布がお札でパンパンになる程、その人はとても裕福になるらしい。」と、 おそらく伝道師(母)のでっち上げた都市伝説を鵜呑みにした姉①と姉②は、その真珠玉を何年も財布の中に。その後、母と姉達の財布がパンパンになったのを僕は見たことも聞いたこともありませんでした。

僕は観たことがないので、当時のジュリーのコンサートの様子はわからないのですが、姉の話によるとジュリーの衣装は、リボンの騎士(例えがふるっ!)のような真っ白の羽のついた帽子にマント、もう一つは、素っ裸にインディアンの羽をかぶったような衣装だったと(下半身は?アキラ100%?)言っておりましたが、定かではありません。とにかくジュリーが美しすぎて何も覚えとらん」「音量が大き過ぎて何も覚えとらん」という、相変わらず、猿でも言えそうなアホな感想でした。

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以上が、44年前の《JULIE ROCK’N TOUR’74》の風景。

当時は、まだキャパ5万人規模のドーム会場なんてものはなく、キャパ1000〜2000人規模の全国の市民会館か郵便貯金ホールをまわるツアーが定番でした。 そしてロックミュージシャンの最終目標は、東京ドームではなく日本武道館でのコンサート。

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1974当時 のジュリーは、今とはまったく違った光を放っており、煌めくビジュアル全開の、その時代でしか見ることの出来ない素晴らしいライヴだったのでしょう。

去年の年末、僕が始めて観たジュリーのコンサートも同じような規模の会場でのコンサート。バックバンドは、鉄人バンドのみのシンプルなものでしたが、ミュージシャン個々の技量や、PA機器の飛躍的な向上、そして何よりジュリーの歌唱力そのものの進化もあり、音楽的には素晴らしいもので、当時とは違う意味で楽しめたのでしょう。

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そして今年も、3.11 ジュリー・ニューシングルのリリースの季節となりました。 

戦後最悪の自然災害、東北地方太平洋沖地震から7年の年月が経ちました。 このジュリーの音楽活動の試みは、この災害を風化させないという一点だけでも、大きな意味があることなのでしょう(しかしながら、恐ろしいことに原発の再稼働がじわじわと進んでいるのです)。

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僕は3月11日にCDショップで購入予定なので、新曲の感想は書けないのですが、一連の《PRAY FOR JAPAN》の流れの中での今回のジャケットデザイン………。 

これはあくまで僕の個人的な願望なのですが……。 

古希の沢田研二のニューシングル、売れてほしいですよね、ヒットしてほしいですよね、皆さん。

《PRAY FOR JAPAN》のメッセージは絶対に必要なのですが、ちゃんとお金かけてジャケ写撮ってほしかった。今現在のジュリーの渋い姿をジャケットにしてほしかった。 

ナベプロ時代のジュリーのブレーンは一流どころが揃っており隙がなかった。これは個人事務所の限界なのでしょうか? 一般のお客さんを掴むのに、やっぱりジャケ写はとても大事だと思うのですが………。

とにかく今年の新曲は、なんとしてもヒットしてほしい! 

後は楽曲そのもののクオリティーを期待するしかありません!

頼むぞ!柴山和彦!  

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おしまい